青野山不動院長福寺、天台宗
 延喜二年(902)守谷市高野に西林寺が創建された後、永禄二年(1559)西林寺末として承応上人により長福寺は開山されました、江戸時代は幕府御朱印寺であったそうです。
御本尊、阿弥陀如来
移し寺、高知県高福山雪渓寺
御詠歌、旅の道うえしも今は高福寺 のちの楽しみ有明の月






 

 鐘楼の鐘は安永五年(1775)のもので、戦時中供出されたが鉄として溶かされる直前に終戦を迎えた。その後、山梨県富士川町の善住寺に渡ったが「元の寺へ帰そう」となり長福寺に戻ってきたという。
 守谷の西林寺64世の義鳳上人、俳号「鶴老(かくおう)」は、俳人小林一茶の師匠でした、義鳳は晩年の余生を送るための隠居寺としていました、天保四年三月十三日没、無縫塔(むほうとう)は西林寺にあります。 「無縫塔」とは、主に僧侶の墓塔として使われる石塔(仏塔)で、塔身が卵形という特徴があり「卵塔、卵墓」とも呼ばれます。

「野の渡し」明治13年の地図に、利根川河原まで一直線の道筋が記載されていて渡し場に出る「野の渡(ののわたし)」という、対岸は柏市富勢の土谷津に渡っている。
「筆子の碑」不動堂の脇にある。この寺小屋の筆子は西林寺の若僧のようで教え子にしたわれ、柏や守谷、藤代の広範囲から集まり来たそうです、寺小屋は「野の渡」の近くにあったそうです。
 朱塗りの「ぽっくり観音堂」は、相馬霊場巡りでも人気です、参加者に高齢者が多いためで「あの世へはポックリ行かせて」という願いからなのです。
「ぽっくり観音由来」の碑文、秀光議建立。
 観音様の御本体は大慈大悲の真理であり、そのおはらたきは大慈大悲の実践であります。
  皆さんが観音さまを信心いたしますとお慈悲をもって皆さんをお守りくださり、災難をまぬがれ、もろもろの願いがかない、そのお徳を頂いて皆さんに慈悲(徹底した親切)の生活が展開いたします。
 その時の皆さんの姿はそのまま観音さまの化身応身であります。この功徳によって安心の清らかな蓮台に乗り、観音浄土に常住の御利益を得ることができます。 念彼観音力 合掌 天台沙門 秀光議   【 南無大慈大悲観世音菩薩 】
 相馬霊場には取手市小文間(おもんま)第15番に「ぽっくり榎大師」という大師堂があり「ぽっくりさま」と呼ばれている石造があります。
 さらに、小貝川橋の藤代病院脇の萱場鹿島神社に「ぽっくり地蔵」があります。取手のぽっくりさん巡り が出来ます。

 墓地内奥に「呆け除け堂」も建立されているので、是非お参りしておきましょう。
 44番札所へ行かれるのでしたら、呆け除け不動堂の手前右側の石段を下り、十字路を左折します、竹林がきれると右前方に西光寺が見えます。


ICON【取手のポックリさん巡り】



  

 参加者配布資料


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