祭神の彦波激武(ひこなぎさたけ)鵜茅葺不合尊は「古事記」「日本書紀」の神話によれば、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)=山幸彦と、海神の娘の豊玉姫(とよたまひめ)との間に生まれた、神武天皇を父とする天神です。
宮崎県の鵜戸に於いて、彦火火出見尊が姫のために、海辺に鵜の羽で屋根を葺いた産屋を造ろうとしたところ、葺き終えぬうちにうまれたため命名されたと伝えられています。
沖田弁天社の創建は古く、もとは宮前の明神の森に鎮座していた沖田(おきだ)社と呼ばれていました。
もともと、この地は沖田村と呼ばれていましたが、文化九年(1812)に沖田の名を廃し、新木と名付けられたということです。
現在の地は、竹内無格社(むかくしゃ)厳島神社の境内地で、市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)がまつられ、その創建は平安時代末の文治二年(1186)に遡るとされています。
ここが葺不合神社になったのは明治39年(1906)の寺社合祀令によるもので、三峰社とともに合祀され祭神に鵜茅葺不合尊に市杵島比売命と白山比売命(はくさんひめのみこと)が加えられました。
現在の拝殿は明和年間(1764~1772)に弁天堂として造立されたもので、沖田村の弁天様と呼ばれ、布施弁天と並ぶ弁天信仰で発展しました。
方三間(正面、側面とも柱間三間)の入母屋造り、向拝付で、建物の中心部が広く、
正面中央の壁に天女の舞姿の色彩画があり、各間の小壁に草花鳥獣の彫刻が彩色され、向拝柱には麻の葉模様の彫刻が施され、弁天堂にふさわしい華やかさを持っていて、現存する木造建築物では市内有数のものでした。
平成15年の改修工事の際、屋根の裏から棟札が見つかり、明和二年(1765)の墨書によって拝殿の建造年が確定しました。
葺不合神社の祭祀は、現在、我孫子市新木の中峠天照神社の宮司が兼務しています。
拝殿の後ろにある本殿は明治32年2月の建立で、大工は新木村の田口末吉、木挽は根本米吉、彫刻師は二代目後藤藤太郎等によって造られました。
方一間、流造の正面に千鳥波風(ちどりはふ)があり 向拝正面を唐波風とする銅版葺きで、四囲の扉や板壁、向拝まわりが神話や瑞祥(ずいしょう=めでたい)の図の彫刻で飾られている。御開帳は十月一日。
この本殿は合祀の際に村人総勢により、宮前の地から数百メートルも曳かれて来たといいます。
氏子は明治13年ごろの記録によると、443人もの氏子がおり村の信仰の中心であったことが分かります。
本殿は昭和47年の工事で茅葺き屋根を鉄板で覆ってしまいましたが、平成15年銅板葺きとし、床下は玉石の間をコンクリートで固め、回廊の下は布基礎(ぬのきそ)に改装されました。
胴廻りの彫刻は、竜や獅子の眼は総て抜いてあるが玉眼を入れる予定であったのでしょう(途中で予算不足?)、全体的に丁寧な仕事である。
彫刻の絵は、前面が三韓征伐(高句麗を含まない朝鮮半島南部の征服)と、左側面が神武東征(大和を征服して橿原宮で即位するまでを記した説話)、後側が天之岩戸、右側面が素戔鳴尊の八岐大蛇退治。
新木駅の北西千㍍、東から西に突き出した字五郎地に新木城跡があったといわれています。
現在、遺構は確認出来ませんが「竹之内」という館跡を示唆する地名が残っています。「五郎地」「竹之内」の地籍の一部は葺不合神社の境内になっています。神社後方の森が五郎地です。
葺不合神社は、その一角とされていて「七ッ井戸」の跡が以前確認されています。
江戸時代の国学者塙保己一による「群書類従、家系部」によれば「下総国新木村住人に相馬蔵人左あり」とあり「蔵人(くろうど)」がいたことを著しています。
「あびこ風土記」によれば、新木城には柴崎城に移るまえの荒木三河守胤重が築城し、後に手狭になり、家臣の田口内蔵之助に配されたといわれています。
田口内蔵之助は、取手の雁金山の合戦に参戦し「東国戦国記」を残しています。民話である「取手の名の始まり」の母体となるのが雁金山の合戦です。
現在の新木小学校の地に新木遺跡があり縄文時代から平安時代の古墳が出土、住居跡も発見されています。
葺不合神社の一の鳥居は昭和8年の再建、二の鳥居は明治15年のもので五郎地から移されたものです。神域は広く境内には集会場があり、本尊であった聖観世音菩薩の他仏像数体が保存されています。
神社左手の山林には「五の神」或いは「お日(にち)さま」と地元では云われている、湯殿大権現、八幡宮、稲荷大明神、天満天神宮、青麻(あおそ)大権現の石仏、石碑が祀られています。
お正月には、五の神には、賽銭やお米が奉納され、三が日は地元の人達が交代で見張りに来ていました。
他にも、村内各地から移された祠、蚕影(こかげ)社、三峯社、童形妙見像、龍宝水神、神明社が参道脇に配置されています。
大師堂77番の建立時は石柱年月とは違うので不明です、弘法大師像は文化四年(1807)に石像に変更しています。さらに大師堂は昭和4年に再建されています。
なお鵜茅葺不合尊を祀った総社、宮崎県の鵜戸宮があります。卑弥呼の伝説が伝わる社で有名な観光地となっています。
葺不合神社氏子中「葺不合神社」縁起より、部分的に記述。
拝殿は弁天堂として平安時代の文治二年(1186)創建。現在の拝殿は、既に250年(※)近く経過しているため、拝殿内に祀られていた弁才天は右側に移され、拝殿中央に格子戸を設け本殿が見えるように改修されている。
【四国73番奥の院の写し】
新木在住の個人の大師霊場 我孫子市障害者福祉センター前
←左、説明の石碑 と 大師堂、右→
大師堂の右脇には相馬霊場の大師道石柱がある、
又相馬霊場との関連を説明した文は汚れて判読できない。
田口氏個人による四国巡り参拝記念に立てられたお堂です。「四国霊場七十三番奥の院捨身ヶ嶽禅定の写し」とあり大師堂が祀られています。
棟札によると「中気除け青麻(あおそ)大権現」として信仰されていた。青麻大権現と弘法大師は関連しません、では青麻大権現とは?
青麻神社の総本社は宮城県仙台市の「県民の森」の先にあります。「三度詣でれば生涯、中気(ちゅうき)の難よりのがれる」と言われています。
「中気」とは現在の脳卒中、脳梗塞などの急に訪れる脳の病いを総称して言います。
「四国霊場七十三番奥の院捨身ヶ嶽禅定の写し」
四国霊場には四十八の奥の院がありますが特にこの第73番の奥の院は弘法大師にとっては重要な意味があります。
弘法大師が七歳のとき(幼少名を眞魚(まお)といいました)に「衆生を救いたい、その力がなければこの身は諸仏に捧げます」と断崖絶壁の頂きより身を投じられます。
しかし、天より天女が舞い降り弘法大師を抱きとめ「一生成仏」とお示しになられた所なのです。
捨身ヶ岳と言われる我拝師山(がはいしざん)を、倭斬濃山(わしのやま)と呼ばれていました。
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