「湖北村誌」伝説によると「弘法大師関東巡錫のおり手賀沼の風景を愛され、湖畔の丘、中里村東原(とうばら)の草庵に足を留めて波切不動尊の像を刻んで安置し、鷹法山龍泉寺と称した」と記されていて、
我孫子市の寺院では最も古い草創の伝説があるが、空海作の波切不動明王像は高野山南院が本尊とされており一般的です。尚、空海は関東まで来ていません。
将門の起した「天慶の乱」で伽藍を焼失し再建されましたが、その後も罹災と復旧を繰返したため、天文年間(1532~1555)権大僧都永楽法印が現在の芝原(しばら)の地に移して南命山としたといいます。
古い記録は失われましたが、後には中相馬七ヶ村(新木・日秀・古戸・中里・中峠・都部・岡発戸)の祈願檀徒と称して中相馬七ヶ村の神社の別当寺として中相馬の名刹と言われていました。
更に青山無量院、柴崎円福寺、高野山最勝院、下ヶ戸西音寺、中峠宝照院、新木長福寺など、近郷十四ヶ寺の末寺を有していました。
堂宇は安政の火災の後、仮堂のまま推移しましたが、昭和30年に上野の凌雲院(りょううんいん、国立西洋美術館の地にあり寛永寺の境内)の本堂や庫裏(くり)の寄贈を受けて移築され昭和47年には本堂内陣の増築を行っています。葵紋の釘隠(くぎかくし)が付いているそうです
山門の石柱は、谷中の初音山東漸寺観智院のものを大正年間に移築したものです。観智院は現在、定期的に行われる仏教コンサートの声明(しょうみょう)で有名なお寺です。
76番大師堂は大きく石造の大師像が四体あります、明治年代に改築されたのですが最近再修復されました。
龍泉寺本堂の左手前には大きな弘法大師旅姿の石像があり、本堂内には弘法大師こと空海の歴史絵が掲げられています。
弘法大師物語26画
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