布佐の利根川辺りでは鮭漁が盛んでした、つい最近まで網代場(あじろば)という地名が使われていました。
川幅全面に網を張り、遡上する利根鮭を一網打尽に捕り尽くす漁でした、今は禁止されている漁猟法でした。
馬頭観音堂は、草創の年代は不詳です。明治3年利根川堤防決壊流失後、大正二年(1913)に現在の敷地に奉納され、観音堂と大師堂が移築されましたが、はじめは仮堂でした。
観音堂は、昭和34年に新築されました、この時に落慶(らっけい)したのは東京築地の魚河岸の支援者によるものでした。
本尊とともに四天王が2体、木造の六臂(ろっひ)如意輪観音、土製の魚藍(ぎょらん)台座の灑水(しゃすい)観音。
灑水観音に、水にお香を入れて作った香水をそそいで清めるたり、流行り病時に観音様を祀り、楊枝と灑水を供える風習などがあり、
灑水観音は水難除けでここには漁藍台座など水に関係した仏像が多く祀られています。また、大師堂は大正十四年に新築されたものです。
布佐河岸繁栄の往時を偲ばせる「東京魚がし」と刻まれた手水鉢や鮮魚商関係者の寄進した石碑があります。
なま(鮮魚)街道と布佐河岸
大型で海洋を安全に航行出来るような造船技術が無かった近年までは、太海航路が無かったために、川路により銚子からの魚を江戸に運ぶには、
利根川を関宿迄運び江戸川を下って江戸へというルートになり青魚の鯖やアジは鮮度が落ちてしまいます。
更に取手から関宿の間の利根川は冬場水位が下がり艀下(はしけ)という小さな舟に荷を積み替えないと高瀬舟では浅瀬に乗り上げてしまい通行出来ませんでした。
しかし、なま街道という陸路による松戸迄の馬、一頭に米俵2~4俵迄による運送手段で、早朝に都を経ち松戸江戸川に夕方の船積みに間に合わせ、
翌朝には江戸日本橋の魚河岸でセリにかけられるようになりました。
その搬送馬の数は数十頭にもおよび年間に四千~六千頭の馬が松戸を往復しました。
荷車や大八車は河川越えの度に荷物の積替えが必要となり使えませんでした。
このなま街道により布佐河岸は、なま街道の起点として、鉄道が開通するまで栄えました。
布佐河岸がなぜ「なま街道の基点」なのか、なま街道は、そもそも「付通し(つけどうし)」といって裏街道でした、すなわち幕府が正式に認めた街道ではないということです。
布佐の隣には木下(きおろし)という河岸がありました、木下は幕府公認の河岸でした。
木下街道は、現在でも県道59号線として行徳へ、なま街道は松戸へと一部重複しながらその道筋を残しています。
木下と布佐は漁業権では争いが絶えなかったようでしたが、幕府は河岸として豊かであった木下ではなく布佐に「なま街道」としての権利を認めました。
布佐の都にある相馬霊場第58番札所観音堂は、なま街道の出発地として、相馬霊場との密接な関係をこの都の観音堂に残しています。
昭和34年の観音堂新築落慶には、東京魚河岸の大きな支援があったそうです。布佐河岸と相馬霊場は水運が盛んであった時代では、大都市江戸との繋がりが重要であり、
その経済効果は布佐の繁栄をもたらしたのでした。大店は買付だけではなく、客も一緒に連れて相馬霊場をお遍路してから帰ったようです。
【鮮魚(なま)街道】
観音堂の後ろの道を「なま街道」といいます、江戸へいち早く鮮魚を馬で運ぶ街道で鎌ヶ谷、柏、松戸から江戸川を経由して翌日には江戸日本橋へと陸路と運河運送に利便をはかった街道でした。
なま街道を歩いた記録と詳細説明
布佐の河岸場に半泊した松尾芭蕉の日記
俳人松尾芭蕉は「鹿島紀行」で布佐を訪れています、そのルートは江戸深川の草庵から市川、鎌ヶ谷と鮮魚(なま)街道と木下街道を北上して、布佐から鹿島へは利根川の舟旅のようでした。
芭蕉の日記には、こう記されています。
「日 既に暮かゝるほどに、利根川のほとり、ふさといふ所につく。
此川にて、鮭の網代といふものをたくみて、武江の市にひさぐもの有。
よひのほど、其漁家に入てやすらふ。
よるのやど、なまぐさし。
月 くまなくはれけるまゝに、夜舟さしくだして、かしまにいたる。」
貞亨四年(1687)八月 芭蕉44歳の鹿島詣でより。
現代訳で、「鮭の網代」とは、鮭を捕獲する網代場です。 「武江の市」の武江(ぶこう)とは江戸の意、市は日本橋の魚市場を指します。
「なまぐさし~夜舟さしくだして」は、魚の生臭さに耐えられず寝られず、月明かりをたよりに、夜舟で逃げ出し鹿島へ向かう、という記述は「鹿島詣」紀行日記に残されています。
鮭(さけ、しゃけ)の語源は「さくさくと裂ける」鮭の魚肉から「裂け」から「さけ」と言われています。
松尾芭蕉はこの後に奥の細道へ旅立ちました、正保元年(1644)~元禄七年十月十二日(1694/11/28)亡。
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