日秀観音
 慈愍山観音堂(じびんざんかんのんどう)
御本尊、釈迦如来、古くは聖観世音菩薩
移し寺、高知県摩尼山国分寺
ご詠歌 國を分け宝を積みて建つ寺の 末の世までの利益のこせり






 

 日秀観音は、古くは将門神社の境内に仏堂がありました。
 将門の守り本尊である行基菩薩作の観音像を安置し、守谷の西林寺から徳道和尚を請じて開祖とし大悲山和泉寺と称しましたが、時を経て現在地に移され、改めて観音寺として再建されました。
 開山は、寛文二年(1662)正泉寺九世名翁全誉大和尚(めいおうぜんよ)、開基は長安定久禅定門(ちょうあんじょうきゅうぜんじょうもん)です。
 昔は、平将門の守り本尊である、行基作の聖観世音菩薩を安置し、将門神社の地へ大悲山和泉寺として開基しました。後に観音寺として現在地へ移転しました。
 「下総国相馬郡日出村観世音菩薩縁起」では「中世、日出(日秀)彈正友治が、この地の守護となり深く観世音菩薩を信仰し観音寺境内に一宇を建立し名翁和尚を導師として安座供養し奉る。」とあります。  
 霊場札所29番は、安永四年の創設です。

 観音堂には将門の後裔と名乗った相馬氏の九曜紋が寺紋として使われています。元は萱葺きであったのですが、 昭和48年にトタン板で萱屋根は覆われました。
 向拝をはじめ各所に彫刻が見られますが、明治の彫刻家である後藤藤太郎兼松(布施弁天の楼門の龍も同人作)の後藤家初代の作と言われています。  本堂の祭壇には、ご本尊の釈迦牟尼仏と寺宗の曹洞宗の尊師である、文化九年(1807)作の道元禅師像が祀られています。  
【平將門調伏の祈祷】
 御府内神田明神を崇敬する者は成田山新勝寺を参拝しない、または「江戸っ子は成田へ行かない」が江戸っ子気質の象徴でした。
 これは朝廷に対して叛乱を起した平將門を討伐するため、僧寛朝(かんちょう)を神護寺護摩堂の空海作といわれる不動明王像と供に、成田山新勝寺へ使わせ、
 乱の鎮圧のため護摩儀式を行わせたためといいます。即ち、成田山参拝は將門を討伐するための手段としたことへの反動と敵意感といえます。
 なお、同じく將門を祭神とする神楽坂の築土神社にも同様の言い伝えがあり、成田山へ参詣するならば、道中に必ず災いが起こるとされました。  將門に対する信仰心は、祟りや厄災を鎮めることと密接に関わっていたようです。  
 大師堂は明治11年の再建です。大師像は石造二体の像があり、文化四年(1807)の刻銘があります。
 成田街道に面した東端には、成田へ行く道を聞いた旅人に成田とは反対方向を示している「首曲がり地蔵」があります。
 將門信仰は日秀では「成田山に参詣しない」の他にも「キュウリは輪切りにすると將門の九曜紋になるので縦に切って食べる」「松角やこいのぼりの禁止」等の風習が残っていました。
 
 【首曲がり地蔵】
 観音堂の前の地蔵尊は首を左に傾けています。平将門を敬愛する日秀の村人が成田不動尊を嫌って故意に曲げたそうです。
 日秀には将門神社や将門井戸と将門を祀る所が多くあります。又、日秀西遺跡は弥生時代からの住居跡群が1978年に湖北高校の敷地内で見つかっています。
【地名】「日秀(ひびり)」とは、「日の出」が「日秀」に変化した地名なのだそうです。

【 本国四国霊場の廿九番について 】
 四国の第29番は、土佐国分寺で「ゴメン」の発祥地です。JR土讃線御免駅が土佐市の隣り南国市にあります。
 土佐の戦国武将、長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)の家臣数百人が百姓をしていました、一領具足(いちりょうぐそく)という制度に暮らす土地で、二期作(年間で同じ作物を2度収穫する)が行われた所です。
 元親は町の繁栄の為に諸税を免除したため「御免」の名がうまれた、と言われています。
 永禄元年(1558)焼失した当寺を元親は再建し、その後山内忠義が山門を建立、優雅でしっとりとした建物のまま今に至っています。また近くには、紀貫之の屋敷跡があります。
 紀貫之(きのつらゆき、貞観八年(866)貞観14年(872)頃~天慶8年5月18日(945/6/30、土佐日記の作者)。
 平安時代前期の歌人、『古今和歌集』の選者のひとり。三十六歌仙のひとりでもある。紀友則は従兄弟にあたる。








ICON 参加者配布資料


ICON 札所選択頁戻