文禄二年(1593)大和国の法隆寺から虚空蔵菩薩を迎えての創建と伝わる。昔は利根町布川の徳満寺の末寺でした。
江戸時代後期までは薬師如来と虚空蔵菩薩の二体が本尊でした。開山は権少僧都忠変という。
明治時代本堂焼失のため薬師堂に移り薬師如来を本尊としたが、明治37年以降は虚空蔵菩薩としている。
明治の「寺院明細帳」に「古老伝説では虚空蔵菩薩像は行基の作で大和国法隆寺より文禄二年(1593)当寺開山の忠変僧都が西国巡礼のおり、お迎えして堂宇を建て安置し延命寺とした。」と記されています。
本堂は罹災し天明三年(1783)再建、明治15年には旧本堂の薬師堂が建てられ、昭和61年に改築されました。
明治十年には庫裏(こり、境内にある住居や倉庫など)が再建されましたが、2004年9月近代的な建物に新築されました。
昔は一時虚空蔵菩薩を本尊としていました。虚空蔵堂内の厨子には弘法大師像が祀られています。文政九年(1826)のものですが、平成時代に補修され新たに彩色されました。
大師堂は昭和十年の再建です。大師堂の向側には光音堂が建ち、観覚光音禅師の座像が祀られています。
虚空蔵堂も明治37年の布佐の大火で類焼しましたが、昭和8年に再建されたものです。
近くの墓所には、日本海海戦で「天気晴朗なれど波高し」で有名な気象学者であった、岡田武松家の墓があります。
宝暦十二年(1762)の御法統願書には、虚空蔵堂、釈迦堂、観音堂の他に客殿や庫裏、惣門とかなりの大きさの伽藍であったようです。
昭和初期の頃、延命寺住職は俊雄散(しゅんゆうさん)という解熱剤を領布されたと云われています。
延命寺は眠病治療の御利益あらたかで人々の信仰も篤かったとのこと薬師如来信仰にまでにもなりました。
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