新四国相馬霊場第21番第37番








      大正四年竹内神社から移し
御本尊、虚空蔵菩薩
移し寺、徳島県舎心山太龍寺
ご詠歌 太龍の常に住むぞやげに岩屋 舎心聞持は守護のためなり





 

 ある日、布佐村の森田多衛門が畑で麦を刈り取っていたところ、急に雷鳴が鳴り、翌日来て見ると一夜にして竹が生え、畑の中に白蛇がとぐろを巻いていました、
 そこで愛宕神社の神託を受け、竹内社をこの地に遷したのだそうです。享保二十一年(1736)に、正一位竹内大明神の神位を受けました。
 勝蔵院(しょうぞういん)墓地内の高台にあり布佐の町並みを一望できます、隣の布佐中学校のその先に竹内神社の森がみえます。21番はこの竹内神社にあったものです。明治初期の廃仏毀釈と神仏分離令により分離された。
 数えで21才は、太平洋戦争時に於いては徴兵年令でした、徴兵除けや戦争に行っても無事帰還出来る様にとの青年の参詣が多かったと聞いています。
 我孫子市布佐の竹内神社の横に布佐小学校があり柳田国男が教鞭を揮った学校です。また、英文の日露戦争戦勝記念碑があります。
 昭和51年に罹災しましたが、昭和58年に再建されました。火災の時の焼け跡が一部残っています。
 竹内大明神として698年創建、日本武命、天迦具土命、武内宿弥命を祭り940年武内社と名のる、その後の天変地異により1953年、現在の地に竹内神社として鎮座しました。
 毎年9月14日15日16日の3日間が祭礼ですが、下総における最大のお祭りで、山車が4台に神輿がかつがれ、参堂の狭い道で夜半まで行われるお祭りは、感深い日本人の気迫で圧倒される思いに感激してしまうでしょう。








 新四国相馬霊場第21番第37番








      西光山勝蔵院
御本尊、聖観世音菩薩
移し寺、高知県藤井山岩本寺
ご詠歌、六のちり五つのやしろあらわして 深き仁井田の神の楽しみ





 

 第21番との両札所のある勝蔵院は、再三の火災により記録が失われていて創建時ははっきりしないが、地方の古刹として名高い。
 歴代住職の墓の最古は、延宝三年(1675)となつています。当時の名主を勤めた小山家の墓もあり、また、大師堂のある裏山入口には「和田氏墓」もあるが和田氏の布佐墓標は、先代の住職の捏造と判明しています。
 開宗・開基は不詳ですが寛永二年(1625)の検地で、寺の2反歩が除け地(よけち=免税地)になっていることから江戸時代には、寺院としてあったようです。  明治の寺院明細帳には宝永二年(1705)中興開山法印孝順再建とあります。
 境内には大師堂の他、聖観音堂、地蔵堂があり、墓地には松岡家(柳田國男の旧姓、明治34年27歳で柳田家に入る迄は松岡姓でした)の墓石があります。
 更に、当地の名主を勤めた小山家先祖の五輪塔は寛永年代(1624~1643)の石塔です。
 第37番開基時の本尊は聖観世音菩薩でした、昔は本堂鐘楼脇にあったのですが第21番霊場が移って来た時に現在地に移されました。
 地元領主の小山家の墓稜が、大師堂から本堂に下りる左手に置かれています。なお、札所がある高台からは布佐の街景色が一望できます。
 布施城(和田城)跡と地名字和田
 わだ幼稚園の右手の車庫の脇を入って行くと狭い石段があり、樹の茂った小高い丘があります、その右手に和田城跡を示す明応二年(1493)の板碑(現在勝蔵院に)があり、後に五輪塔があります。
 鎌倉時代の源頼朝の腹心で和田義盛が鎌倉を追われ、その子孫がたてこもったという伝承です。和田氏の伝承は捏造話しとなりました。  この字名和田は、どうも文政二年に、勝蔵院の住職覚道師が言い出したことであって、中世板碑にあった明応九年四月という年記が和田氏と結びつき、古墳が和田城址への想像を呼んだという『郡誌』の考証が正しい。
 【参考】茨城県取手市和田: 小貝川下流右岸の湾曲部沖積地に位置し、河川の屈曲したところを「わだ」といったことに由来するという。  また和田民部が戦いに敗れ、土着して椎名氏と改姓し、和田の姓を地名としたという説もある。








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