我孫子市湖北台、都部の大竜山正泉寺
御本尊、延命地蔵尊
移し寺、香川県我拝師山出釈迦寺 (がびしざんしゅつしゃかじ)
ご詠歌、迷いぬる六道衆生すくわんと 尊き山にいづる釈迦寺






 

 大師堂は安永四年(1764)観覚光音禅師が願主として禅師と共に四国の出釈迦寺から土を運び相馬霊場73番を開基した石柱が参道に残されています。
 弘長三年(1263)北条時頼の息女法性尼(ほっしょうに)=桐姫が留庵したとの草創伝説があります。
 源時頼を開祖としています。後に真如寺より俊峰周鷹(しゅんぽう しゅうよう)を迎えて開山し曹洞宗寺院となりました。高く険しい峰=俊峰、の意味もあります。
 俊峰は永正三年(1506)入寂し以来四十一世を数えます。
 また手賀太守の原兵右衛門尉胤次(はらひょうえもんのじょうたねつぐ)を開基として、位牌と石造の宝篋印塔(ほうきょういんとう)の供養塔があります。
 七世の竹厳宗嫩(ちくげんそうどん)は白泉寺を開山、九世の名翁全誉は日秀観音寺の開山で、
 ことに十一世の徳翁良高は声望高く修行僧の参禅する者が多く寺は栄えました。しかし明和三年(1754)火災に遭い伽藍を焼失、血盆経なども失われました。  十年後の安永三年(1764)に旧書院を移して本堂としました。
 本尊の地蔵尊は、文化文政年代に光格天皇の祈願仏となり、仁孝天皇の梵鐘御寄進で鐘楼門を建立されました、明治以降には鐘楼門他の修理が行われています。
 
 血盆経と女人成仏(けつぼんきょう と にょにんじょうぶつ)
 弘長三年(1263)北条時頼の娘桐姫(法性尼)の創建と伝えられています、女人成仏の霊場として著名です。
 女人成仏血盆経出現図等の絵画3点と血盆経縁起・紺紙金泥血盆経をはじめとして版木類一式を含む資料は、近世民間信仰を明らかにするものです。  1998年3月千葉県指定文化財(有形民俗文化財)。
  ICON血盆経出現図他参考資料
 『血盆経談義私』には、正泉寺の前身、法性寺(宗派不明)の長老の母が血盆池に堕ち、母を救うために長老が血盆経を書写したという説話が載っており、
 正泉寺が前身寺院の縁起を換骨奪胎(焼き直し)して、法性尼を主人公とする新たな縁起を作ったことがわかっています。
 飯白和子氏(「待道大権現とマツドッ講―市内における女人講の変遷過程を通して」我孫子市教育委員会資料)によると。
 正泉寺が血盆経信仰を喧伝しはじめたのは、明和年間に荒廃した寺院再興のためでした。
 この論考では、千葉県に見られる安産講、待道講が正泉寺の隠居寺、白泉寺によって広められた待道大権現の信仰によるものであることが明らかにされています。
 正泉寺では、血盆経出現縁起や血盆経本文を多数版行しており、血盆経霊場として広く知られるようになっていました。
 なお、当寺では地蔵を血の池地獄の救済者とし、三幅の縁起絵を所蔵しています。
 慶應義塾大学文学部基層文化研究Gの資料より。

 【法性尼伝説】
 桐姫は十六歳の頃、法性尼となってここに法性寺を創建しましたが、二年後には病に倒れ世を去りまた。
 しかし、法性尼永眠後153年を経た応永24年(1417)、法性寺の檀家孫右衛門の娘おとりは霊にとりつかれ、娘は貴婦人の姿となって、腰から下を紅のように染め苦しみなから寺の和尚に
 「私は桐姫 法性尼です、血盆地獄に墜ち苦悩が絶えません。どうか法性寺にある延命地蔵菩薩にお祈りをして欲しい」と言って和尚に頼みました。
 和尚は直ちにお祈りをあげるとその夜、「直ぐに手賀沼へ行け」とお告げがあり和尚は、早朝、手賀沼へ行きました、
 すると沼底から白蓮が一本現れその中に経文が乗っていました。
 和尚は経文を持ち帰り、娘の枕元で読むと「私は法性尼と共に成仏いたします」と言って息が絶えましたが、程なくして蘇生し現世のおとりに戻ったといいます。
 ここに「血盆経」が出現し女人成仏が可能となり、この頃大騒ぎとなり時の将軍であった、足利義満は「女人成仏血盆経出現道場」の額を贈ったといいます、
 山門にそのレプリカが飾られています。
 また手賀沼の清い泉から出現したことから寺名を正泉寺と改められたそうです。
 この後「延命地蔵尊」と「血盆経」は多くの婦人信仰者の祈願寺となりましたが、現在布教は行われておりません。

 参道入口の脇には、桐姫こと法性尼の五輪塔が佇んでいます。「五輪卒塔婆」ともいいます。
 五輪塔と多くの卒塔婆は、五大の種子(しゅじ)梵字によって最上から、
 団形(宝珠)の キャ=空(くう)輪、天空、虚空のことであり、仏教思想の空(そら)のことでもある。  半月形(半球)の カ=風(ふう) 輪、成長、拡大、自由を表す。  三角形の ラ=火(か) 輪、力強さ、情熱、何かをするための動機づけ、欲求などを表す。  円形(球形)の バ=水(すい)輪、流体、無定形の物、流動的な性質、変化に対して適応する性質。  方形の ア=地(ち)輪、大地である地球を意味し、固い物、動きや変化に対して抵抗する性質。  と刻まれています。よく見ると人が座禅をしている姿をしています。
 これは密教が説く宇宙の生成要素である五大(五輪)思想を表し大日如来のシンボルとして尊崇されています。
 皆様もおなじみの、お墓に供える板塔婆の切込みはこれを簡略した形になっています。
 五輪塔の形はインドが発祥といわれ、本来舎利(しゃり=遺骨)を入れる容器として使われていたといわれるが、
 日本では平安時代末期から供養塔、供養墓として多く使われるようになりました。
 中国の五行思想(木・火・土・金・水)と数が同じで、一部共通する物もあることから混同されやすいが、両者は全く別個に成立したものです。

 正泉寺と血盆経
 正泉寺は、近在の手賀沼から「血盆経(けつぼんきょう)」と言う「女人成仏」を説いた経典が、手賀沼の蓮の葉から出現したと言う伝説があり、
 全国的に女性の信者を集めていたことで知られています。
 古代インドでは女性の地位は極めて低く、浄土にも女性はいないと考えられていました。
 その影響は仏教にも及び、女性はそのままでは成仏し難い存在とみなされていました。
 日本でも鎌倉時代になると、親鸞や日蓮などのように女人成仏を認める考え方も見られるようになったものの、一般には「女鎖」とか「女賊」と呼ばれ、
 女性は血で穢れた罪深い存在であり、成仏を妨げる「業障(ごうしょう、成仏することを妨げること)」となるものとみなされていました。
 そのため、高野山や金峯山のように、「女人禁制」の結界石を立てて、聖域や霊場への女性の立ち入りを禁じていた場合も普通に見られていました。
 今日の男女平等の思想に比すると何とも不合理な考え方でしたが、この血盆経では、血によって地神や水神を穢したために血の池地獄に落ちる宿命を持つが、
 この血盆経を書写し祈ることによって救済されると謳っていました。この経典は中国で10世紀以降の明や清時代に、
 道教や仏教その他の思想をもとに民間で広まった「偽経」と言われ、わずか420字の小経典でした。
 日本に伝えられたのは室町時代以降で、日本国内で一般に普及したのは江戸時代になってからのようです。
 この経典は、朝鮮ではほとんど受容されなかったと言われます。
 日本では更に「延命地蔵尊」と「血盆経」は多くの婦人信仰者を持ちましたが、明治初期の廃仏棄釈の後、
 血盆経は「女性卑下の教えであり男女同権の思想に相応しくない」という反対派によって、布教を禁止されました。
 当時は女性に最も支持されていたのに、半強制的な反対派の意見は屈折した思考の元に、女性達の意見を無視した宗教弾圧としか思えません。
 

 こじんまりとした風情の時代劇に合うお寺です。参道に、光音禅師と共に四国の出釈迦寺から土を運び相馬霊場73番を開基した と記された石柱があります。








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