開山大凉玄樹和尚、開基山高八右衛門(檀家)、天正八年(1580)遷化によるの草創建立。
大師堂は安永四年(1775)に創設、流れ造りの向拝付きという、古い形を留めた造りで残っています。
薬医門の脇に、不詐竃酒入山門の石塔があります。竃酒(くんしゅ)とは、清浄な境内への立入り制限で臭者や飲酒者をいいます。
我孫子市史による興陽寺の縁起
興陽寺は、もと葛飾郡金杉村(現、埼玉県松伏町)高徳寺末寺で室町時代最末期の草創でした。
開基の位牌には「開基覚了院殿天室自性大居士、延宝五年(1677)八月五日」とあるので、開山の寂年と開基の没年には相当のへだたりがあるが、
山高家は徳川家臣千八百石という背景があり、当寺としては有力な檀家であったため、開基に宛てたと解されている様です。
個人のお寺です。山高氏がこの地に知行所を宛行(あてが)われたのは寛文元年(1661)のことで、開基については過去帳に
「牛込住、今墓有、直参旗本」と記されています。
享保11年(1726)には山高信礼なる者が法華経十巻を敬写して当寺に寄進しています。
相馬霊場は安永五年(1776)と記されるが、石標建立年であり既に設置されていたものですが霊場開基時期は不明です。
ご本尊は開創時は薬師瑠璃光尼菩薩でした。境内の旧薬師堂には安永年代以前すでに薬師及び十二神将像が安置されていました。
残されていた旧物厨子の板に「安永八己亥年(1779)十一月初八日、十二神将造立再、当山十四世代、右南鐐(なんりょう、二朱判銀)壱片、
寄附当村部郎衛娘、願主当邑長右衛門」の墨書によって立証されるが、残念なことに、これら諸像は文政の我孫子宿大火で焼失にて現存しない。
明治の「寺院明細帳」には、境内仏堂二宇として、「薬師堂間口弐間 奥行三間 弘法大師堂間口壱間 奥行壱間三尺」と記されています。
薬師像は本堂仏壇にまつられた舟形光背(ふながたこうはい)の木造金彩定印(きんだみ じょういん)の金箔の如来坐像です。
薬師堂は、昭和61年の改築時に薬師如来坐像と十二神将像の補修彩色が行われました。
僧形像二体が本尊の両脇に配され、曹洞宗永平寺開山の道元と当寺開山の大凉両禅師の像で、ともに椅子に坐す木造彩色像でした。
現在、ご本尊は、明治の「寺院明細帳」で「本尊釈迦如来」となっています。
仏壇両脇に達磨大師と大権修利菩薩(だいげんしゅりぼさつ)が右手を頭の上にかざしている姿で安置されている。
達磨大師像は、朱衣(しゅい)を頭から被り、腹前の手を衣で覆い、衣端が膝から下に垂れ下っており、活眼で坐禅する姿を表している。
享保11年(1726)の寄進奥書のある法華経を納めた筥(箱)に坐しているところから、当時の造像と推測されます。
一方の大権修利菩薩像は達磨大師像と対をなすもので、腰をかけて左手をかざした宋服(中国宋朝時代の服)の像で招宝七郎(しょうぼうしちろう)ともいい、「失われた神」海神と伝わります。鎌倉の寿福寺に祀られています。
大師堂脇の天神社祠には、没後の菅原道真を神格化した学問の神で雷神である白木一木彫の出世天神が祀られています。
正式名称を天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)といいます。
拈華微笑(ねんげみしょう)、
言葉を使わず、心から心へ伝えること。また、伝えることができること。類義語、以心伝心(いしんでんしん)、教外別伝(きょうげべつでん) 不立文字(ふりゅうもんじ)
仏教語で「拈華」は花をひねる意。「華」は草木の花の総称。「拈」は指先でひねること。
【故事】
釈迦が霊鷲山(りょうじゅうせん)で弟子たちに仏法を説いたとき黙って大梵天王から受けた金波羅華(こんぱらげ)という
金色の蓮の花をひねって見せると摩訶迦葉(まかかしょう)だけがその意味を悟って微笑んだので釈迦は彼だけに仏法の真理を授けたと言う故事によります。
「拈華」は花をひねること。「花を捻りて微笑する」と訓読みします。
|