羽黒山円福寺、江戸時代初期の創建。
御本尊、阿弥陀三尊、 観音菩薩と勢至菩薩が脇侍
移し寺、愛媛県別宮山南光坊
ご詠歌、このところ三島に夢のさめぬれば
 別宮とてもおなじすいじゃく







 

 すいじゃく【仏教語】、仏や菩薩が衆生(しゅじょう)を救うために、仮に神や人間の姿となって現れる事
 開山は江戸時代初期、開山開基とも不詳です。柴崎宿は渡し船の時代迄青山と共に最も栄えた所でした。以前は村の鎮守羽黒妙見社の別当寺であったようです。
 昭和61年本堂の改築とともに、本尊の阿弥陀三尊像も補修されました。
 大師堂の隣に平成2年建立の四国八十八ヶ所巡拝記念塔があり、大師堂前の足元に赤御影石の四国を象った敷石があります。  大師堂の足元には四国四県を表したみかげ石が敷かれている。柴崎は旧水戸街道沿いに栄えた渡しの船宿場で「駆込み」等、江戸の大店の影響が伺える処です。
 隣接する羽黒妙見社、現在の柴崎神社の別当寺でした。
 円福寺と台頭
 文化13年(1816)初代川村磯右衛門は、円福寺檀中惣代(檀家総代)であり、当寺では重要な旦那でした。
 円福寺は、真言宗豊山派で奈良の長谷寺の末になりますが、江戸時代の頃は江戸四ヶ寺蝕頭の本所弥勒寺(下総国の触頭(ふれかしら))に属し、中峠の龍泉寺が直触頭(じかふれかしら)寺となっていました。
 円福寺の台頭として、初代磯右衛門は、下ヶ戸西音寺、大岩田法泉寺、桑原光明寺と共に月番の願書を、流山の東福寺の添簡とともに提出請願しています。月番は、奉行や各寺間の連絡業務を行う制度です。
 月番の組頭になることは、労力による報酬によって、村の財源になるために、檀家が努力しました。組頭名主がいる寺自身も、格上げされました。    我孫子市史研究第八号 小平久 より

 五鈷杵(ごこしょ)をお持ちの木造の大師像は2体あり、隣に鯖大師堂、その隣に火炎を背にした不動明王堂があります。
  


鯖大師、
 我孫子市に鯖大師がある由縁は「なま街道と布佐河岸」による、なま街道は鉄道が引かれる以前に、鹿島灘や那珂湊から銚子を経て利根川を上り、布佐にて荷馬に積替え手賀沼北路の陸路を松戸の江戸川に運び、再び船に積替え江戸橋の魚河岸市場への街道をいうが、都会と地方を結ぶ経済効果の役割を担っていました。  相馬霊場の役割は、江戸の大店は買付に取手や布佐に訪れ、店名入りの「まねき札」を残し、寄付をするようになり、相馬霊場巡りを兼ねて人々を呼び地方都市として繁栄する。繁栄のために建立されたのが円福寺等の鯖大師であるのです。  四国八十八ヶ所徳島県のJR牟岐線(むぎせん、室戸シーサイドライン)さばせ駅近隣に、四国番外霊場四番である「鯖大師本坊の八坂寺」があります、御本尊は鯖大師です。 鯖大師伝説を2つ紹介します。
 大師さま 四国霊場お開きの時、難所八坂八浜の真中、行基菩薩お手植の松の下で野宿され行基菩薩の夢を見る。当所は土佐浜街道にて、お大師さま土佐よりの馬子に積荷の塩鯖のお接待を乞う。
 馬子、お接待をせず、罵り立ち去る。
 お大師さま「大阪や八坂さか中、鯖ひとつ大師にくれで馬のはら病」と詠まれると馬にわかに倒れ病む。
 馬子、馬曳坂で思案にくれる。 先程の僧がお大師さまなることを知り俄悔(ざんげ)、お大師さまに塩鯖一匹を献ず。
 大師さま 馬子の懺悔をあわれみ、お加持(かじ)水を作り馬子、お加持水を馬に飲ます。 「大師にくれて馬のはらやむ」と詠まれると、馬の病気たちどころに治る馬子、馬の病気が治ったお礼をいい、己を俄悔し、お大師さまを礼拝する。
 (加持:心やさしく触れてやり安らぎを与える行為)お大師さまは馬子を大砂の浜、法生島に連れて行き、塩鯖を海に投げお加持すると塩鯖は生き返って泳ぐ。
 馬子、この霊験に発心、お大師さまの教えを受け、この地に庵を作り、ひとを助け鯖大師の霊験を今に伝える。
行基菩薩による説、(668~749)
 行基が四国を巡錫している時にこの地を訪れた際、鯖を馬に背負わせた馬追が通りがかった。 行基が鯖を所望したところ、馬追はこれを断った。
 行基はこれに対し「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 行基にくれで馬の腹や(病)む」と歌を詠んだ。
 すると、馬は急に腹痛で動かなくなった。困った馬追は行基に鯖を差し出した。
 行基は今度は「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 行基にくれて馬の腹や(止)む」と、「くれで」を「くれて」と1文字変えて詠むだけで、馬の苦しみは治まった。
  
柴崎神社
 かつては妙見社、北星社と呼ばれ、明治13年から柴崎神社となった。祭神は天御中主命(あめのみなかぬしのかみ)と外六柱が合祀されています。
 神域は広く整備されており、参道奥には社殿を守る一対の亀の石像、正面の扉には九曜星の紋があります。
 新設の手水舎と三峰神社の別殿がある。日本武尊、平將門、相馬重胤、荒木三河守等との関わりが伝えられている。
とくに平將門と叔父の良文が平国香と戦いで良文がまさに討たれようとした時、童形の妙見菩薩が現れ、敵の上に剣の雨を降らし救われたと言い伝えられており、以来、一族及び後裔の千葉氏、相馬氏の守り神となって、妙見社や妙見神社と呼ばれている。
 妙見菩薩は北極星、北斗七星を神格化したもの、亀は菩薩の乗る聖なる生き物です。
 中国では道教の神で、星を見て位置を確かめた遊牧民に信仰された。北方の守護神で玄武(げんぶ)という、想像上の神獣で、足・首の長い亀に蛇が巻きついた形をしている。また玄武は亀蛇(きだ)とも呼ばれる。
 境内には市内最古の板碑、永仁六年(1298)が発見されている。また、左手の塚の上に「日露戦役黒髪塚」という記念碑があり、大井いち他10名の女性達が夫の武運長久を祈って黒髪を手向けたといわれている。








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