曹洞宗祝融山法岩院、俗称、田寺(たでら)
御本尊、釈迦如来
移し寺、愛媛県熊野山石手寺
ご詠歌、 西方をよそとは見まじ安養の 寺にまいりて受くる十楽





 

 近くの古利根沼辺に中峠城址公園(芝原城ともいう)があり、戦国時代の武将河村出羽守勝融の砦でした。河村出羽守により開基されたのが法岩院で出羽守の墓が本堂横脇の丘上に残っています。
 河村出羽守勝融とは後北條配下の豪族でした。永禄四年(1561)小田原城の戦いで豊臣軍に敗れた関東武士団は終結となりました。
 中峠城もまもなく落城し城主の家臣で城代であった、林伊賀守順道は城主の妻子の先途を見届けたあと、従士三十二人と共に自刀し悲運をとげます。順道(なおみち)の悲運を悼み、順道塚(じゅんどうづか)が当寺から東方の竹薮の中に残っています。
 法岩院の縁起は、開山した正覚禅師雪田真良和尚に、開基を中峠城主の河村出羽守勝融が頼み、城に相対する寺山台の地に、天文11年(1542)創建したという縁起です。
 当寺は罹災と再建の繰り返しでした、なかでも堂宇は十六世天然自暁和尚により半鐘の造立など整備されましたが、再度罹災し二十世越山和尚の時に地蔵ヶ谷津の現在地に移されました。
 以前は寺の三方の南の寺前、西の赤坂・市領、北の根古屋・外谷津・水神前は、一面の水田で東は寺畑といい畑が一面に続いていたことから「田寺」の愛称で呼ばれました。
 本堂は昭和55年に落慶して御本尊が落慶時以降は弥勒菩薩から釈迦牟尼仏となっています。
 境内には、道了尊、韋駄天像、達磨大師像、弁財天像などがあります、大師堂は明治13年の再建で向拝天井に彩色の七福神図があり、扉脇の羽目板には龍の彫刻や小壁に波涛と獅子の彫刻があります。
 大師堂南側に道了尊像があり、道了尊が守護神の曹洞宗大雄山最乗寺(伊豆箱根鉄道大雄山線)の輪番寺としての深い関係にあることが伺われます。
 檀家の財前重信氏の紹介による郷土史研究家長沼友兄氏の論集では、河村氏が後北条氏草創の時期からの家臣で相模国足柄上郡川村郷(御殿場線山北駅)を在地とし、この地に派遣されて中峠城に入り、天文十年(1541)に北条氏の滅亡と共に滅んだもので、川村郷が曹洞宗の古刹大雄山最乗寺のある現在の南足柄市に隣接していた為、法岩院の本寺である長昌寺が最乗寺の門末に当ることから、この地に法岩院を開基したものと著されています。
 【中峠(なかびょう)】
 峠を「びょう」と読むのは千葉県人だけだそうです、「とうげ」と同意語です。「びょう」の名付け主は河村出羽守と聞きます。稲荷峠=とうかんびょう、他上総や下総国に多い。








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