新四国相馬霊場第38番第43番
三 十 八 番 |
子の神大黒天 御本尊、子の神(ねのかみ)大将軍 移し寺、高知県蹉蛇山金剛福寺 ご詠歌、ふだらくやここは岬の船のさお とるも捨つるも法のさだ山 |
の 神 大 黒 天 境 内 |
縁起では子之神将は、行基菩薩が諸国巡錫の折りに下総国分寺(市川市)で薬師如来と十二神将および大黒天を刻んで安置したが、国分寺がたびたび火災の災厄に逢うので、尊像を背負って諸国を遊歴した宥啓阿闍梨により、康保元年(964)此の地に一宇を造り安置されたと言います。 志賀直哉の書斎が残る志賀直哉邸と白樺派記念館が近くにあります。 門前左側に、村川別荘があります(無料)。東京帝国大学で西洋古代史の教鞭をとった村川堅固と、その子息堅太郎の別荘。我孫子宿本陣にあった離れを大正10年(1921)に移築した母屋と、昭和2年(1927)から翌年にかけて建築した独特のデザインの新館があります。昭和初期の別荘地の雰囲気を今に残しています。 平成19年市指定。 【昭和初期に手賀沼吟行が行われた地】 高浜虚子の俳句結社「ホトトギス四S」阿波野青畝(あわのせいほ)と水原秋桜子(しゅうおうし)、取手市山王出身の高野素十(すじゅう)、山口誓子(せいし)等は、此の地で吟行を開いたそうです。 【逸話】 源頼朝が旗揚げ目指し関東諸国を歩いていた折、我孫子の里で重い脚の病にかかり歩行困難となった為、沼近くの農家に身を寄せ数日過ごしたある夜、夢枕に大きな白ネズミに乗った白髪の老人が柊(ヒイラギ)の葉を持って現れました。 そして、この地の鎮守子の神権現の化身であることを告げ、老人は柊の葉で頼朝の足を示し祓(はら)ったといいます。 後日、頼朝は将軍となり社殿を造営しました。 |
新四国相馬霊場第38番第43番
四 十 三 番 |
白花山延寿院、大正七年ここへ移転した。 御本尊、不動明王 移し寺、愛媛県源光山明石寺 ご詠歌、聞くならく千手ふしぎのちからには 大ばんじやくもかろくあげ石 |
の 神 大 黒 天 境 内 |
延寿院は古くから子の神大将の別当寺であったといわれてきました。延寿院は、JR我孫子駅の北側にあり大師道があった頃は、久寺家の宝蔵寺から相馬霊場の南端に位置する興陽寺の途中に位置していました。 |