高野山(こうのやま)最勝院
御本尊、不動明王
移し寺、高知県竹林山神峯寺
ご詠歌、みほとけの恵の心神峯(こうのみね) 山も誓いも高き水音





 

 俳人小林一茶の日記「七番日記」の中に、文化七年(1810)三月二十九日「それから布川の俳友月船宅に向い銚子道を通り、高野山村にさしかかり四国二十七番札所の小堂が新築され、参拝人で賑わいをみせていたので参拝に立ち寄った」とある。
 又、「四国二十七番の立派な石柱が立って」とあるのは、霊場石柱を新造して建立したのであろう。最勝院の名は出てこないが当地であることは間違いない。
 高野山「こおのやま」地名の読み「鴻巣」や「鴻ノ山」と記す所に同じで、弘法大師廟所の和歌山県高野山とは関係が無い。
 明治の「寺院明細帳」には「天正20年(1592)創建の古老の伝えあり、『寛保元年(1741)開祖祐意和尚再建』とあり、のち罹災し無住となったが享保六年(1721)農家の旧材を使って本堂を再建、本尊、厨子なども新調された」とあります。
 現本堂は昭和49年の新築、客殿と庫裏(くり)が2007年新築されました。
 境内の各家の墓には古い墓石が多く、渡邊家の墓にある寛永八年(1631)の一石五輪塔は我孫子市内最古の墓石といわれています。札所石標は安永五年(1776)に建立されました。札所創建は不明です。
 大師堂は昭和37年の改築で棟札にある佐藤鷹蔵(たかぞう)は、のちに我孫子に住んでいたバーナード・リーチのデザインした三角椅子の家具などを作った名工です。
 境内にはかつて桜の大木があり、小林一茶は、七番日記で文化七年(1810)三月廿九日に「野々下村通り柏村にかかりて、我孫子駅にて昨夜の三人に別ル、布川に入。
 高之山村に四国廿七番の観音うつして参詣有。是を新四国霊場といふ、庭に大桜有、布佐村に入。神輿大小二つかき出して「阿波大杉大明神、悪魔を払いてよいやさ」と笛太鼓三弦にてはやして、さらに祭のさまをなす。
 此里の疫神(えきじん、疫病神)の流行なる物から、かくするといふ。苗代のこやしに草葡萄の入る土地ぶりなりといふ」とあります。
 「 桜木や 同じ盛も お膝元   一茶 」
 この句は、まさにこの地で詠んだ如く・・季節も句帳記載日も一致するのですが場所が特定出来ません。
 一茶が訪れていた頃の本堂前には、斜めに傾いた桜の巨木があり「最勝院の寝桜」と言われていました、しかし昭和20年代の台風で倒れました。
 「みほとけの ちかいのこころ かうのみね やいばのぢごく たとひあるとも」は、この当時の御詠歌として唄われました。
 「けふぎりの 春とはなりぬ のべの草」 「手の奴 足の乗りもの 花の山   一茶」は、一茶48才の作で北総行脚時代の名句といわれています。
 一茶は40才代に、たびたび北総地方を行脚し、流山の双樹をはじめ、布川で回船問屋を営み俳人である古田月船(げっせん)、一茶の師匠であった西林寺の鶴老(かくろう)和尚、
 布施の彦兵衛を訪れていました、その旅は実に37回を超すと伝わっています。
 【地名、高野山を「こうのやま」という】
 金剛峯寺のある弘法大師の高野山(こうやさん)とは違い「荒地の荒野が広がる山」を開墾したところであり、荒野山では「荒」が「凶作」を意味するために「高野山」と変化したという。
 日本には日本種のコウノトリが生息しており、鴻巣とか鴻野山とかの地名が各所にあるが鴻野山が高野山と化けたのも知られる。(角川地名辞典より)








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