柏市の布施弁天、紅竜山松光院東海寺
御本尊、弁財天と聖観世音菩薩
移し寺、香川七宝山神恵(じんね)院
ご詠歌、笛の音も松吹く風も琴ひくも 歌うも舞うも法のこえごえ






 

 江ノ島神社弁天堂、浅草浅草寺弁天堂と関東三弁天堂の一つです。隣に「あけぼの山公園」があり大きな風車もあり四季の花が咲き憩いの広場となっています。
 また、さくら山は桜の名所として関東では有名なところです。
 【布施弁天東海寺の縁起】
 大同2年(807)香取灘という海であったこの地に紅竜が現れ島をつくりました。更に里人の夢には天女が夜な夜な現れました。天女のお告げにより島の洞窟から尊像が見つかりました。 その頃巡錫中の弘法大師はこのことを知り、像を自作し安置して開基したことを告げたといいます。里人は弘法大師に帰依して、弘仁14年(823)田畑を寄進して寺を建立しました。後に源経基によって松光院として再興されたそうです。
 【地名、布施】
 布施は、「お布施」そのものです。神仏や人に物を施しめぐむこと。布施弁天周辺の地名を「富勢(とみせ)」といいました、現在でも商店街名や学校名に富勢という名が受け継がれています。富勢は「ふせ」とも呼べます。 柏市には、手賀沼湖畔に布瀬という地名もあります、なにやら布施は布瀬が起源であるとの伝承が布瀬にあります。
 【平將門の誕生伝説】
 取手市野の井の龍禅寺には三仏堂があり、伝説では将門が祀ったという三仏があります。将門は、刃も矢も受付けない鎧のような身体であったと伝承されております。
 将門の母は、強靭な息子を望み龍禅寺へ再三訪れていたある日、西の空から紅龍が炎と共に下りてきました。驚いた母は、たちまち男児を出産しました、将門の誕生でした。 紅龍は、布施の沼から昇竜して龍禅寺へ飛来してきたのでした。紅竜山つまり布施沼の東海寺の紅龍であった訳です。しかし、将門は後の戦いで紅竜山を焼き尽くしてしまったのでした。
 他説では、将門の身体に紅竜が乗移ったという説もあります。
 【境内の様子】
 本堂は真言密教の原理により内陣と外陣を区別した構造であり、外陣の天井には狩野探舟による龍の図を、内陣の天井には本堂建設に貢献された九十八藩の大名紋章が描かれています。
 鐘楼は「からくり伊賀」と言われた、つくば市谷田部の飯塚伊賀七によるもので門柱に十二支の彫刻を配し方位を示した建造物です。
 境内は非常に広く「日本庭園」や、敷地隣には「あけぼの公園」があり、オランダ風車や四季の花々は大勢の人々で賑わっています。
 【歴史事実の訂正】
 「涼しさや 真帆にまむかう 山なれば」は、松尾芭蕉が布施弁天で詠んだ句と云われてきました。しかし芭蕉の弟子の宗舞であることが判明したため柏市によって訂正されました。
 基角の句碑「玉はつき ひるもふけてけり 布施ごもり」は間違いないようです。
 


 

 境内の三重塔 と 小林一茶の碑
 桜で有名な「さくら山公園」の北端にある一茶の碑です。
「 米蒔くも 罪ぞよ鶏が 蹴合うぞよ 一茶 」
 読み:こめまくも つみぞよ鳥が けあうぞよ
 一茶の句集「株番(かぶらばん)」に次の文があります、布施東海寺に詣でたら、鶏たちがあとを追ってくる。それが不憫(ふびん)で、門前の家に寄って米一合を買い まいてやるとあちこちで仲間喧嘩を始めた。その間に鳩や雀がやってきて、心静かに米をついばむ。鶏たちがえさ場にきたら、鳩も雀もすばやく梢に逃げ去った、鳩や雀は鶏たちの喧嘩が長く続けと思っているだろう。
 江戸時代のため、士農工商その他の生業があるが皆このようなもの と世を風刺したものです。








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