二 十 六 番 |
浄土宗竹林山南龍寺 御本尊、阿弥陀如来三尊 移し寺、高知県龍頭山金剛頂寺 ご詠歌、往生に望みをかくる極楽は 月のかたむく西寺の空 |
勢 南 龍 寺 |
大師堂はもとは観音堂でした。元和元年(1615)寂蓮社尊誉霊哲上人により開山。元禄12年の後藤家文書によれば正保4年(1647)の創建で寛文9年(1669)にここに移るとあります、移転元は不明です。 富勢(とみせ)と布施 柏の布施河岸の歴史は古く、渡し場は平安時代からありました。柏という地名の発祥に於いては、柏市の北に位置する布施の河岸場(かしば)からと言う説もあるが定かではありません。他にも柏名の説があり以下の通りです。 国鉄柏駅が誕生した頃は、現在の東武野田線の豊四季から柏駅にかけて民家の少ない柏の木の多い丘陵地でした、その丘陵地は柏の葉のような地形で豊四季を中心に十余二から根戸迄の広範囲に丘陵が点在していたという説。 さらに、地名の歴史は、慶応2年(1866)人口数百人の小さな村落で「柏村の長全寺」という寺名と地名の記載がありました、今も毎年行われている、送り大師の東葛印旛霊場大師講(鎌ヶ谷市郷土資料館)の文中にあります。 明治22年、柏村は戸張村・篠籠田村・松ヶ崎村・高田村等と合併して千代田村となります。明治29年、常磐線の開通に伴い「柏」駅として開業をはじめます。 柏の葉なのか柏村から柏駅としたのかはハッキリしませんが、当時の地名である「千代田」という駅名にはしなかったようです。 その後、大正15年、柏駅前の発展により千代田町は柏町へ改名されました、昭和29年9月、柏町は土村・田中村・小金町と合併して市制を施行し東葛市となりましたが小金町を松戸に編入して3ヶ月後に東葛市は柏市に改名されました。 柏市は昭和40年代から急発展し、現在では常磐線沿線最大の市となり「北の渋谷」と云われる程までに急高度成長しました。 富勢は、現在、富勢小学校などの施設に名が残っていますが、消え去ってしまった地名が富勢(とみせ)です。 富勢には、流山から布施弁天、戸頭、守谷、谷田部を経由して筑波へ通じる平安時代以前からの古い街道で、利根川で渡る「七里ケ渡し」があり宿場として栄えました。 今でもこの街道筋には「富勢商店街」と名称だけが残っています、明治時代の町村合併によって名付けられた富勢は昭和29年に布施になりました。 諏訪道(流山と柏市豊四季経由の布施間)、うなぎ街道(鮮魚街道)とも云われました。富勢は「ふせ」とも読めます、事実、ふせ村と呼ばれていました。 布施の地名は、布施村は古代からの下総から常陸へ出る官道の要に当り、平安時代初期、布施屋が設けられ村名となったと言います、格式を誇り村民の財力もありました。 布施屋とは奈良・平安時代に僧侶の慈善事業によって営まれた宿泊所で旅行や運搬者の無料の宿坊でした。 【参考資料】行基と最澄により、行基の活動「昆陽(こやの)布施屋」について。 行基年譜に布施屋というものが出てまいります。布施屋というのは、これは申すまでもないことだと思いますが、いろんな人々にものを施す、布施ということばの「布」は布ですから、本来は布を与えることだったのでしょう。 布施屋というのは、貧しい人に、あるいは生活に困っている人々にいろんなものを、まあ布もあるでしょうし、食べるもののない人には食べるもの。みなさんの合力でもって集めて施しをする。 これを行基さんは奈良時代におやりになりました。その場所が布施屋であり布施屋の起源なのです。 行基は全国に布施屋を広めました、和歌山市の布施屋は「ほしや」と呼び、渡し場がありました。 |