御本尊、大日如来
大日堂、春日神社境内内
移し寺、香川県我拝師山曼荼羅寺
ご詠歌、わずかにも曼荼羅拝む人はただ 再びみたびかえらざらまし







 

 大日堂は、明治32年学校として六年間利用されましたが、日露戦争凱旋式の煙火で焼けたようです。
 昔は小文間の中心地であった大日坂
 三堂並びの中央が大師堂です、大日堂の他、不動堂、青面金剛を含めて百八塔ある「百庚申」があります。2021年現在108基はありません。
 もとは新田の公会堂附近にあったものですが、盗難と分散を防ぐため、ここに集められたそうです。
 参道とっつきの青面金剛像は庚申信仰の本尊で、顔の青い金剛童子で病魔や災難を除くといわれ、手に持つ金剛杵は煩悩を打ち破り菩提心を表す法具でもあります、享保12年(1727)建立。
 最も古いのは、元禄十六年(1703)が現存します。但し小文間では、現在庚申は行われていないようです。
 この近辺では、千葉県印西の木下(きおろし)街道沿いには、庚申石碑が赤く塗られ「庚申を行いました」と知らせていました。
 大日坂の向かい側には春日神社があり、神社は元禄15年(1702)の創建で天津児屋根命を祭神としています。また、大日堂と大日坂を含めて春日神社の境内であります。
 大日坂にはかつて小文間村役場や学校が存在していた時期もあり、江戸時代を通じて村の中心的役割を担っていたのですが、明治35年に学校が嵐で倒れ、更に明治39年の日露戦争戦勝祝賀の際の煙火で焼けてからは、旧小学校周りに移っています。
 
 庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔です。
 庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多く。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれています。
「庚申講の庚申待ち」とは、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行き命を縮めるのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀って宴会などをする風習です。
 赤く塗られた庚申塔は講が存続し活動中の証とされています。
 庚申塔の石形や彫られる神像や文字などはさまざまですが、申は干支で猿に例えられるため「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多いようです。
 同様の理由で庚申の祭神が神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもあります。又、猿田彦神は道祖神とも信仰されるため、庚申信仰が道祖神信仰とも結びつくこととなりました。
 更に仏教では、庚申の本尊は青面金剛(日蓮宗は帝釈天)とされるため、青面金剛が彫られることが多くあり、 庚申塔は街道沿いに置かれるところもある為に、塔に道標を彫り付けられたものが多くあります。
 これは道祖神など他の路傍の石仏にはあまりみられない機能であり、庚申塔の特色とされています。
 我孫子駅前には、国鉄時代の大きな鉄道庚申塔が残されています。昔は殉職祭が行われていました。
 庚申塔は全国的な分布が確認されているのですが、特に旧相模国には日本ではじめて三猿が彫られた庚申塔があり、茅ヶ崎市輪光寺(市重要文化財)に、青面金剛が彫られた日本最古の庚申塔などが残っています。
 庚申信仰は京都の大黒山金剛寺の八坂庚申堂が発祥の地として、テレビ等で度々紹介されるようになりました。
 








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