東谷寺は、室町時代末の小文間城主一色宮内政良、永禄四年(1561)没の祈願寺であり鬼門除けとして創建されました。
観音堂には一色氏の守護神であった如意輪観世音菩薩が安置されています。正確な開山、創建時期は不明です。
取手七福神の弁財天が境内に祀られています。
茶道の祀り寺であり、本殿奥の庫裏(くり、境内にある僧侶の私宅物件)には茶室が設けられております、相馬霊場での寺院では珍しいお寺です。
茶室は庫裏に2室あり、本堂にも別室があり、このように寺院内に多くの茶室を設けている東谷寺に、茶道への関心を抱かぬ訳にはなりません。
事実、地元の茶道師匠を問わず、茶道界隈では有名な東谷寺の様です。
白山神社にあった西光院の本尊を管理しています。また、相馬霊場第六十六番、十五番、七十二番、十八番、十六番、六十四番の御朱印寺でした。
東谷寺近隣に残る歴史的なもの・・。
元小文間小学校の正門の近くに「首無し地蔵尊」: 雁金山の戦いで敗れた一色家の残党の斬首において地蔵を祀ったところ、この地蔵は時代を経ても呪いが解けずに居たそうで、ある日地蔵の首を切ったところ人傑の血が迸り、葬られて居ない魂の供養の為に祭事を行い鬼門に弔いを移したとされています。
当寺の東側には宗四朗坂があり、坂の途中に「首欠け地蔵」があります。一色家残党の徒刑場跡に首欠け地蔵を後世祀ったのか?宗四朗坂を更に下っていくと利根の河原へ出ます。
昔、ここに五条街という都市があったとか? 更に、河原には「神出しの渡し」がありました。 取手市吉田で発見された古文書には、相馬霊場のお遍路さんは、此処から利根川を下り我孫子側の古戸または江蔵地までの「神出しの渡し」利用して布佐の都の札所へ巡拝と記録が残されています。
東谷寺下の河原で「お~ぃ船頭さん、舟を出しておくれ」と大声で呼ぶと、茅の藪文間から船頭が顔を出すとか・・。
また、東谷寺66番やぽっくり榎大師15番へ老親子(老親とはおじいちゃんやおばあちゃん)の60~70才代=66番、十代15才前後=15番の組み合わせをいう。で願掛け参りに相馬霊場を巡る様子が目に浮かびます。
小文間城主一色宮内
<大師堂の裏手に「小文間城主一色宮内政良の墓」と読める木標と傍らに墓石がありました。2021年現在これ等の遺構は撤去されていました。>
取手市内を流れる相野谷川河口近くに「城根」バス停がある相野谷川の取手寄り一帯に、雁金山があり(現在城根住宅)室町時代末期の永録年間に「雁金山の合戦」があったところで、この合戦は当時小文間の城主であった一色宮内が、取手の大鹿城を闇討ちして攻め落とし、城主の大鹿太郎左衛門時平を倒したといいます。
一色宮内は城に帰りつく前に、我孫子柴崎の城主荒木三河守とその連合軍と稲の大鹿時平の義弟高井十郎連合軍の反撃に会い、雁金山で合戦し、小文間城を落とされ、宮内始め城内の者三十有余人は「首切り地蔵」の場所で処刑されたと云われています。
宮内はこの大師堂の後に埋葬されたと言う伝承があるが、千葉県側に落ちて生延びたとも言われています。いずれにしても城は滅びました。小文間城は東谷寺に行く途中の市営住宅南団地の前方高台で梨畑になっているところにあったそうです。
城跡の痕跡は東谷寺の西斜面にあった様です。
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