取手七福神の福永寺は真言宗豊山派の寺で毘沙門天像は、八尺近い大きな像で有名です。海中山号に相応しく境内は貝塚の山と言えます。
天長元年(824)の夜明け方、小紋たなびく波間に燦然と輝く毘沙門天が湧出したといわれています。
毘沙門天は運慶ニ十五代目の弟子で法橋の位にあった京都堀川の福田康政嘉兵衛兼永の作で、胎内に「閻浮檀金(えんぶだんごん、金と白金の合金)製の本尊を秘蔵していました。
取手七福神の一つです。日本には三大毘沙門が存在します、京都の鞍馬山、大和の信貴山、野州の大岩山の三毘沙門天像を言うようです。
毘沙門堂は、かつて左甚五郎家による造営といわれていましたが、老朽化により建替えられました。
大師堂は以前の中妻貝塚資料館に近い処にありましたが、台風による大木の倒壊で、2017年現在地に新築され移されました。
昭和の戦後、ある騒動がありTVで話題となりました、寺の境内のケヤキの木を切り板にしたところ、木目に先代住職の顔が浮かびあがってきたとことでした。
更に、騒がれている最中に、今度は此の人面板の裏側に先代住職の奥さんの顔まで現れました。TVも各局で公開したため大騒ぎとなり、現在でも本堂に祀られています。
福永寺境内には、生きながら成仏したという定伝の石棺と鐘楼が一郭にあります。
隣の貝塚上にある鳥居の後ろに公民館があり、貝塚の説明板があります。中妻貝塚は縄文時代後期に於ける巨大な馬蹄形貝塚であり厚さ1メートルもの貝層が直径二百メートルの円形に広がっています。
また骨角器、石器、製塩土器が出土していて足元に貝殻が白く散乱して貝塚の上に立っていると実感できます。
台地の近くまで香取灘が追っていたということです。
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