ハウプトファーマ取手という製薬会社の裏手に安養寺跡地があります。平石と馬坂バス停の中間に真黒い民家の脇道林道を進み突当の林の中です。
安養寺は真言宗の大規模寺院だったようで土浦法泉寺末でしたが、江戸時代末に寺の住職が帰農して後を継ぐ者がいなくなった為、廃寺となりました。
なお、小文間の現存するお寺は、明星院の奈良長谷寺を除き、全て土浦法泉寺末真言宗です。
紀元前3世紀時代の西方貝塚の跡地です。 【河川側からは行くことができません】
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利根川に没している五条街跡
宗四郎坂の碑をよく見ると「五条街」についての記述が碑の裏側にあります。小文間五条街と呼ばれる古道のひとつ。とあるのですが、郷土資料集の記述と場所が一致しません。
小文間の「神出しの渡し」といわれた渡船場の近くから、幅五間(約10m)の道が西方に向かい、相野谷川辺りで減り込むように利根川に没します。
五間巾道路に沿って、五百坪ほどの土塀を巡らした屋敷跡の痕跡があるようです。北方に丘陵地帯があり、冬暖かで夏涼しい。
閑居山(かんきょざん)という丘陵があり、都の渡人か都に関係のある豪族が住んたような響きがある。
利根川は平安時代の頃は香取海の干潟の筈で居住地としては無理。下総台地まで湿原です。
しかし、文面を根拠とすると、条坊都市、南北中央に朱雀大路を配し、東西の大路を碁盤の目状に組み合わせた左右対称で方形の都市、の位置を推定すると、相野谷川河口近在となります。
応仁の乱を避けて土佐中村に小京都を築いたという、一條教房のような人が取手にも来ていたのでしょうか。
更に、我孫子市湖北、古戸、五条街、押付、蛟蝄社、龍ケ崎と古代の東海道の存在と於賦駅の近くという関連から、都の存在を無視していいのか。
本寺の土浦法泉寺
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