札所堂は奈良法隆寺の夢殿を模した八角堂(永代供養塔)開山堂の前に鎮座しています。開山堂の廻りには西洋人面の十六羅漢像が祀られています。
ご住職の先代は、お遍路さんの宿泊所を営んでおられましたが持病をもちながらも四国に於いて修行したのち、明星院を開基されたそうです。従って、明星院は昭和の戦後に開基された寺院で新しい。
本尊の地蔵菩薩は四国阿波国(徳島)の立江寺で修行の後、仏身分けしていただいた貴重な延命地蔵菩薩さまです。
大師霊場第19番に於いては、観覚光音が相馬霊場創建時では薬師堂に開基、現在の薬師堂の第17番は成龍院(既に廃寺)にありました。
この様な、17番と19番が移された時期は不明ですが、明星院の前身は相馬霊場お遍路さんのお休み処であり宿坊であったようです。
明星院縁起
初代井上慈光住職は、農業をやっていた父光運が晩年に近い頃、八十八ヶ所巡りに刺激されて僧職になりました。
それまでは県道傍に三階建ての宿坊を営み「明星院八十八ヶ所宿坊」と名付け、相馬霊場の八十八ヶ所巡りの人々を宿泊させていたそうです。
この頃の小文間は農作物の収穫が少なく、田も低地の遠いところにあり、道具を運ぶのが重労働であったそうです。さらに、貧困村故、生まれてくる子供も虚弱体質の子が多かったそうでした。
昭和44年慈光僧により長谷寺末寺を建立。病弱であった慈光は四国八十八ヶ所巡りをして健康を回復、発心して僧職を志し、徳島県小松島市の関所寺(邪悪な心を持った者は入場不可)である橋池山立江寺(たつえじ)四国霊場第19番にて修行僧となりました。
修行の過程で慈光は、立江寺より鎌倉時代の像高30センチ程の杉の木像を授かり、下妻城主(多賀谷城)の多賀谷氏家臣源松右衛門頼久(?)の守本尊として勧請奉安しています。
慈光は、京都の醍醐寺で修験道の修行、高野山での修行ののち、小文間に戻り明星院を建立、立江寺から勧請の延命地蔵菩薩をご本尊として、六角堂永代供養塔とともに厄除大師として19番札所を改築勧進されました。
また、西方公民館の設立では、小文間の台組と谷津組が勢力争いをしてなかなか出来なかったところを明星院の御尽力により建築することが出来たそうです。
第十九番札所は、娘十九の厄除け大師といわれ、女房の健康は三十三番大師へ参り、亭主は四十二番大師へ月参りをするとか。
『娘おしや十八歳、早十九歳。廿歳までの親心』は良縁願掛け、廿一番は良縁の結願祈願札所でしたが、なぜ21番なのか、戦争中は兵役逃れの願掛者が多かった様です。境内脇にはさらに17番があります。
< 大師道 >
相馬霊場には、古くからの「大師道」が残っていますが、特に明星院と福永寺の間の大師道は、時代の変化で道が居宅の庭先になり、居宅の庭を横切る所が残っています。
庭の中を横切って歩いても住人は歓迎してくれるのですが、なるべ遠慮するようにしましょう。
また、大師道は獣道跡が残る程度で草藪で覆われており、谷津の谷地なのでマムシの危険性もあります、個人で行かれるのは危険です。
石下大師との関連
明星院境内にある多くの大師石像(像高70Cm程)と石下大師との関連を別資料でご紹介します。
「常総市石下の大師霊場との関係」 2013年調査記
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