天気が良いと後ろの畑の梅林越しに筑波山が見え広大な新田風景のパノラマが広がります、「相馬二万石」といわれ、江戸時代からの食料源として現在に至ります。
この穀倉地帯は、利根川の東遷を命じた徳川家康によって、伊奈半十郎忠治(玉川浄水の玉川兄弟とともに有名)が小貝川を堰で止め其の用水を利用して出来たものです。取手が潤った源がここに展開しています。
伊奈半十郎忠治と相馬二万石
昔の小文間は養蚕が盛んで栄えていました、戦後の昭和まで取手駅前には片倉製糸工場があったほどでした。しかし、絹の生産はナイロンに置き換わり減少、生産者も居なくなりました。
さらに、部落全体百戸に幼児は2人きりと人口も減少してしまい小学校は閉鎖。ある村人は、そのうち小文間台地下の新田も葦原になるだろう。と少子高齢化と過疎化を心配されているようでした。
弥陀堂は、僧のいないお寺のようなもので、最近まではこの御堂で葬式をしていたそうです。
相馬霊場札番は18番ですが、第19番大師霊場碑があります。碑は小文間字仲谷津の山口善左衛門による四国四遍大願成就で建立したもので、相馬霊場の札所ではありません、従いまして存在理由は不明です。
小文間から藤代に至る地区では、小貝川の下流域を文巻川といいました。現在に於いても旧六号道には「文巻橋」が架かっています。
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