紋間と云われた小文間、「小文間」地名の起源は、小貝川が海であった頃、「紋間」という大きな中州でした。
だが、時が経ち江戸時代の頃には陸地化して小貝川河口も現在の様に河川となりました。小貝川対岸の、佐倉藩領には文間郷がありました。
寛永七年(1630)、小貝川河口の付替え工事、現在の開削工事による河川の直線化と河川長短縮のときに仲間入りし、紋間は小文間に改められました。
戸田井の三角渡しと歌枕文巻川 【 TAP=押付河岸地図表示】
①戸田井の渡場から利根川を渡り我孫子の江蔵地へ、②戸田井から文巻川を渡って押付河岸へ ③布川から利根川を渡り布佐の都へ、三つの渡場を結ぶ渡船を三角渡しと云いました。
さらに、江蔵地へ渡る渡しは、お遍路の渡しと言って、昭和30年代まで運航していた様です。最後に、我孫子の古戸から東谷寺下までの神出しの渡し 等です。
東谷寺下の神の浦の「神出(かみだ)しの渡し」の存在は、近年、吉田の古民家より発見され立証されました。
明治期以降に於ける相馬のお遍路さんは、この「神出しの渡し」で小文間と布佐の江蔵地(えぞち)、または古戸とを渡した様子を記述しています。
「神出し」とは「神の出し」と思われ「出し」とは「船着き場、川下に突出た桟橋」です「戸、津、湊」をいいました。「お~ぃ!舟を出してくれ~」と呼ぶと船頭さんが出て来たそうです。
「 水茎の 書きながせども 流れぬは ふみまき川といへば なるべし 読人不知 」文巻川とは小貝川の二三成橋(山王)より下流域の古代からの河川名だったようです。
短い舟旅でしたが、宿から振舞われた「佃煮弁当」は美味しかったそうです。伊勢屋さんはお店を閉めてしまいました。
元伊勢屋さん宅には、今でも文久二年(1862)六月新吉原の遊女屋中万字屋弥兵衛と正妻てう、それに世話人伊勢屋源助によって寄進された常夜燈が現存しています。
また、40~50人が乗船出来たという渡し舟用の、長さ3mもある「舟の櫓(ろ)」、更に高さ1mにも及ぶ、大きな「講看板」や大店の「看板」が、処狭しと並べられていました。
船宿は、先代の二代目の源助さんが昭和39年まで続けられました。最盛期には、77人ものお遍路さんを泊めたそうです。
常夜灯は夜道を常に照らす灯で、街道筋の宿屋の存在を知らせる役割も担っており、戸田井の船宿に存在した昔は、取手宿に匹敵するほどの賑わいがあった為と思われます。
戸田井の脱衣婆ァ
16番札所堂後方の焔魔堂には「閻魔さま」と「戸田井の赤鬼婆」が仲良く座って居ました。閻魔大王は、ご存知の通り「死後の世界の大王」であり地蔵菩薩の本地仏です。
子供の頃に「嘘をいうと、閻魔さまに舌を抜かれるょ」といわれ、閻魔大王の恐ろしい形相に怖がりました。
「戸田井の赤鬼婆」は、像が真っ赤に塗られていた為に赤鬼と云われた三途の川の「脱衣婆ァ」です。死後の世界では「三途(さんず)の河原」別名「賽の河原」があり、この川を渡り冥土の都へ旅立ちます。
男も女も着て来た物は全部脱いで、脱衣婆ァに預けて川を渡ります。
<< あり日しの戸田井の赤鬼婆像
ある夜、近くに住んでいた男は酒に酔い、夜道を帰宅途中に赤鬼婆のある小堂の前で鬼婆像に対して「お前のような恐ろしい婆がいるから、だれも、この道を避けて通らない」とののしり自宅に戻りました。
よく朝、男の家はまる焼けとなり、赤鬼婆ァにお詫びに行ったそうな。 取手市史より
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