新四国相馬霊場1664番  

 新四国相馬霊場第16番、第64番






   戸田井白山神社境内の観音堂
 御本尊、十一面観世音菩薩(東谷寺に現存)
 移し寺、徳島県光耀山観音寺
 御詠歌、忘れずもみちびき給え観音寺 西方世界弥陀の浄土へ








 

 紋間と云われた小文間、「小文間」地名の起源は、小貝川が海であった頃、「紋間」という大きな中州でした。
 だが、時が経ち江戸時代の頃には陸地化して小貝川河口も現在の様に河川となりました。小貝川対岸の、佐倉藩領には文間郷がありました。
 寛永七年(1630)、小貝川河口の付替え工事、現在の開削工事による河川の直線化と河川長短縮のときに仲間入りし、紋間は小文間に改められました。

 戸田井の三角渡しと歌枕文巻川 【 TAP=押付河岸地図表示】
 ①戸田井の渡場から利根川を渡り我孫子の江蔵地へ、②戸田井から文巻川を渡って押付河岸へ ③布川から利根川を渡り布佐の都へ、三つの渡場を結ぶ渡船を三角渡しと云いました。
 さらに、江蔵地へ渡る渡しは、お遍路の渡しと言って、昭和30年代まで運航していた様です。最後に、我孫子の古戸から東谷寺下までの神出しの渡し 等です。
 東谷寺下の神の浦の「神出(かみだ)しの渡し」の存在は、近年、吉田の古民家より発見され立証されました。
 明治期以降に於ける相馬のお遍路さんは、この「神出しの渡し」で小文間と布佐の江蔵地(えぞち)、または古戸とを渡した様子を記述しています。
 「神出し」とは「神の出し」と思われ「出し」とは「船着き場、川下に突出た桟橋」です「戸、津、湊」をいいました。「お~ぃ!舟を出してくれ~」と呼ぶと船頭さんが出て来たそうです。
 
 「 水茎の 書きながせども 流れぬは ふみまき川といへば なるべし  読人不知 」文巻川とは小貝川の二三成橋(山王)より下流域の古代からの河川名だったようです。
 短い舟旅でしたが、宿から振舞われた「佃煮弁当」は美味しかったそうです。伊勢屋さんはお店を閉めてしまいました。
 元伊勢屋さん宅には、今でも文久二年(1862)六月新吉原の遊女屋中万字屋弥兵衛と正妻てう、それに世話人伊勢屋源助によって寄進された常夜燈が現存しています。
 また、40~50人が乗船出来たという渡し舟用の、長さ3mもある「舟の櫓(ろ)」、更に高さ1mにも及ぶ、大きな「講看板」や大店の「看板」が、処狭しと並べられていました。
 船宿は、先代の二代目の源助さんが昭和39年まで続けられました。最盛期には、77人ものお遍路さんを泊めたそうです。
 常夜灯は夜道を常に照らす灯で、街道筋の宿屋の存在を知らせる役割も担っており、戸田井の船宿に存在した昔は、取手宿に匹敵するほどの賑わいがあった為と思われます。

 戸田井の脱衣婆ァ
 16番札所堂後方の焔魔堂には「閻魔さま」と「戸田井の赤鬼婆」が仲良く座って居ました。閻魔大王は、ご存知の通り「死後の世界の大王」であり地蔵菩薩の本地仏です。
 子供の頃に「嘘をいうと、閻魔さまに舌を抜かれるょ」といわれ、閻魔大王の恐ろしい形相に怖がりました。
 「戸田井の赤鬼婆」は、像が真っ赤に塗られていた為に赤鬼と云われた三途の川の「脱衣婆ァ」です。死後の世界では「三途(さんず)の河原」別名「賽の河原」があり、この川を渡り冥土の都へ旅立ちます。
 男も女も着て来た物は全部脱いで、脱衣婆ァに預けて川を渡ります。
  << あり日しの戸田井の赤鬼婆像

 ある夜、近くに住んでいた男は酒に酔い、夜道を帰宅途中に赤鬼婆のある小堂の前で鬼婆像に対して「お前のような恐ろしい婆がいるから、だれも、この道を避けて通らない」とののしり自宅に戻りました。
 よく朝、男の家はまる焼けとなり、赤鬼婆ァにお詫びに行ったそうな。   取手市史より








 新四国相馬霊場第16番、第64番







   西光院(廃寺)
 御本尊、阿弥陀如来像は、東谷寺にあります
 移し寺、愛媛県石鎚山前神寺
 御詠歌、前は神うしろは仏極楽の よろずの罪をくだくいしづち








 

 昨夜は雪、朝遅くになって、やっと自然の金色の光を受けていた。昨夜はさぞかし寒かったのでは・・・。
 西光院は1722年永信の開祖であったが本堂はない。西光院は、明治六年に住職が教師となり寺子屋でした。現在戸田井集会所
 霊場札所の後方に元禄期の十五夜塔と宝暦期の廻国塔があります。
 一段と高い所に、白山神社が鎮座しています、本殿は鳥避けの為に金網で囲まれていますが立派な彫刻を伺うことが出来ます。
 白山神社の祭神は白山姫命で、歯痛に御利益があるようです。特に向背部の龍は、柴又帝釈天の彫刻寺や取手八坂神社を手掛けた名工、後藤縫殿之助が無名であった若い頃に、相馬霊場にお遍路に来られた時、村長が彫刻を依頼したと云われています。
 後藤縫殿之助については、小文間に残した後藤縫殿之助の彫刻
 
  なぜ相馬霊場巡りのお遍路さんは、戸田井橋が出来ても小貝川の向い布川(利根)へは行かずに布佐へ行ったのか。
 相馬霊場祈願寺の長禅寺境内にある、第五番札所に関連し、布川の徳満寺に相馬札所五番の建立が果たせなかった為、が巷の噂のようでした。
 第5番受入拒否論の布川に相馬霊場が無いので行く必要がなかった、または、布川経由では2度の渡船が必要となる為。これ等の理由と思われます。
  しかし決定的な理由が起きました、相馬霊場完成三十年後に徳満寺主願で「布川八十八ヶ所」が建立されました。
 観音霊場を含め日本全国に新しい霊場が誕生し、お遍路ブームでしたから、隣接する霊場札所の問題が起きてもおかしくない筈です。
 民間信仰ですが寺社が絡む問題です、ここに寺社同志の暗黙の了解「既に完成している霊場地は侵害しない」でした。
 ただし、大師霊場と観音霊場は全く別の霊場信仰なようで、観音も大師も混合です。地元の霊場を大切にしましょう。 2011/11/06 追記
 
 戸田井の西光院跡(廃寺)と撤去された観音堂。
 第64番大師堂は、16番観音堂と別の敷地にあり、阿弥陀如来と観世音菩薩は観音堂にありました。参道向かい側の戸田井会館は元西光院の跡です。
 明治4年の神仏分離令により白山神社は、西光院より独立しました、又明治6年、ここに小文間小学校が開校されました。
 
 令和になって戸田井白山神社は新説の道路によって景色が変わろうとしています。既に黒い板塀の大きな平屋の屋敷などが取り壊されています。
 小文間の村里の田園風景が消えつつあります。
 








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