念仏院は弘経寺の末寺でした。寛永四年(1627)開山創建。
昔は共同墓地であったためか、いろいろな宗派の墓標がある。
その中に、幕末の取手の生んだ国学者で歌人であった沢近嶺(さわちかね)の歌碑と墓がある、在銘中は新町に居がありました。沢近嶺は通称油屋輿兵衛といい、村田春海の門下でした。
新古今集の歌をよくし、水戸烈公が自ら近嶺の家に駕寵を止めて、歌稿の添削を乞うたほどに有名でした。
「天つ神 おこせし道を外国の 教えよりとぞ 思うつたなさ」日本古来の教えを絶対的と思い込むのは正しくない、という詩です。
天保八年(1837)、取手宿の大火で原稿や家財そして蔵書を全て焼失し嘆きの翌年、他界しました。「春夢(しゅんむ)独談」が唯一の著書です。
小林一茶との親交もあり、親子ほどの年の差でしたが、両国の一茶宅へ出向いていた様子が日記に残されているようです。
取手八景の一つ「念仏院の暮雪」利根川の雪景色でもあったようですが「今何処」。又、大師堂脇に、紀州出身の浄土宗の高僧で、幕末期に庶民の間に名号を授け、十念数えるなど日夜布教につとめた徳本上人独特の丸い書体で彫った『南無阿弥陀仏徳本」念仏塔がある。
文化十年(1813)前後、上人は関東、特に利根川流域を巡礼したといわれ、その教えは利益的であったため、庶民に熱狂的に迎えられたという。大師堂後方の墓地内から六番への近道です。
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