新四国相馬霊場第1番5番88番


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   大鹿山長禅寺、臨済宗妙心寺派
 御本尊:延命地蔵菩薩
 相馬霊場第一番、霊山(れいざん)堂、 御本尊、弘法大師
ご詠歌、霊山の釈迦の御前にめぐりきて
          よろずの罪も消え失せにけり
移し寺、徳島県竺和山(じゅわさん)霊山寺(りょうぜんじ)





 


 長禅寺境内の建物配置図
 大鹿山(おおしかざん)とは、
 現在の取手競輪場を含む近辺でした。

  写真は三世堂内部からの本堂を映す丸窓
 
  承平元年(931)平将門の祈願所として、現在の白山金刀比羅神社に、十一面観世音菩薩を守り本尊として創建されました。
 将門没後は御厨三郎吉秀という人物により加護され、29代目織部時平(おりへときひら)により文歴元年(1234)に御堂に安置し承久元年(1219)議門和尚によって再興を果たしました。
 十一面観世音菩薩立像は快慶(かいけい)こと安阿弥(あんあみ)の作という、平成30年修復されています。
 元禄八年(1695)取手の渡しが行政指定、水戸家の命令で水戸街道と定めた為、長禅寺は街道筋である当地へ移りました。
 長禅寺が白山大鹿の地にあった頃には、全国から自然に集まった千躰地蔵が境内にあり、現在地に移る頃には三千体にも及んだそうですが、大鹿に全て置いて来たようです。
 後に光音禅師によって、千躰地蔵堂は現在の新天地に三世堂として引継がれました。これらの地蔵は明治の頃迄残っていた様ですが現存していません。









 新四国相馬霊場第1番5番88番





  4月中旬八重桜の第五番札所
御本尊、地蔵菩薩
移し寺、徳島県無尽山地蔵寺
ご詠歌、六道の能化の地蔵大菩薩 みちびき給えこの世のちの世
    六道の能化(のうげ)地蔵とは、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅
人間、天上界の六道をいい、終生済度するお地蔵様。
  





 

 長禅寺の八重桜はチョットした名所!
光音禅師が構想していた寺へ開基できなかった大師堂のようです。俗説では、井野の本願寺(後に高須霊場に深く関与)、利根町の徳満寺(後に布川霊場の祈願寺となる)では、と伝わっていた。
徳満寺だとすると、相馬霊場開基の30年後に布川霊場を開基、第一番札所となっています。
 お遍路の縄張りは暗黙のうえで定まっており、お互いに侵害しないとされてきたようです。
それにしても、第五番周りの「八重桜」は、補陀落浄土の世界を想わせているのか夢のようです。









 新四国相馬霊場第1番5番88番


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  結願札所(けちがんふだしょ)、満願祈願のお遍路さんは最後の札所
御本尊、薬師如来
移し寺、香川県医王山大窪寺
ご詠歌、南無薬師諸病なかれと願いつつ 詣れる人は大窪の寺





 

 四国八十八ヶ所霊場巡りに於いては、順討ちで第1番から2番3番と番号順にお遍路します。従って、第88番札所は最後になります。
 通常は1番から番号順である順打(じゅんうち)ですが、御利益倍増などの祈願により順序を反対に巡る「逆打(さかさうち)」があります。
 相馬霊場巡る会では、順打、逆さ打の両方をその都度使い分けして、交通安全と季節の最良時期を考慮してご案内しています。
 霊場巡りに於いては、順序が定められている訳ではないので、何番から巡拝されても構いません。が初めて訪れる札所を発願(ほつがん)といいます。
 また、巡拝が一日では廻り終わらない場合、日毎最初に訪れる札所を「打始(うちはじめ)」、その日最後の札所を「打止(うちどめ)」といいます。
 そして、お遍路の最後に訪れる札番は八十八番になり「結願(けちがん)」といいます。 四国霊場巡りの場合は特に気をつけて88番大窪寺を最後に訪れないと「結願朱印」を頂くことが出来ません。
 相馬霊場の場合は88番が此処長禅寺にあるため、結願のためにお遍路最後に戻ることになります、がご自由にどうぞ。
 更に、相馬霊場には第89番があります、ついでに巡拝中に寄るか、改めて巡拝するか、もご自由にどうぞ。
 【お礼参り】
 霊場巡りを完走しても終わりではありません。弘法大師、観音霊場巡り場合は善光寺と北向観音堂へのお礼参りがあります。
 大師霊場巡りの場合は、高野山奥の院へお礼参りをしてください。また、京都の東寺や高雄山寺などもお礼参りの対象でした。







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 三世堂(さざえ堂)、光音堂、他









   三世堂、さざえ堂は下の欄でご案内します。
 
 
 写真下は光音堂(こうおんどう)
 観覚光音禅師の霊廟です、火葬され天明3年(1783)永眠。
 別項の光音堂で説明してあります。







 


小林一茶句碑とさざえ堂
  小林一茶の句碑「下総の四国巡りや閑古鳥」:閑古鳥とはカッコー鳥です、閑古鳥が鳴くと言いますと、お客の少ない閑散とした情景を表しますが、この句では夏の季語であり  静かな境内で「カッコー」と鳴く、夏の情景を詠んだ句だそうです。長野県小林一茶記念館に確認済。
 一茶の日記「七番日記」(1810年)によると、相馬には度々訪れていました。布川の古田月船は一茶と親しい関係でした、また、沢近嶺(さわちかね)は、若い頃に月船から俳譜を学んでいました。
 七番日記に、文化11年8月28日から9月4日まで、月船亭に両者が宿泊している記述があります。
 
 
三世堂(栄螺堂)とは!
 三世堂は、さざえ堂建築技法で建てられた仏堂です。2005年1月に県指定重要文化財になりました。
 文暦元年(1234)将門の弟の将頼の子孫と言われる、大鹿左衛門尉綾部時平が十一面観音堂として建立したのが始まりで、当初は普通の堂でした。
 宝暦13年(1763)長禅寺住職幻堂和尚は、弟子であった観覚光音に、朽ちかけた観音堂の改築をまかせました。
 光音は、さざえ堂として百体の観音(西国33観音、秩父34観音、坂東33観音)を安置した、百体観音堂を三世堂として再建しました。
 三世堂は人気となり諸国近隣より多くの人々が集まるようになりました。 取手市史より
 
 御詠歌 軒下にある「施無畏(せむい)」の扁額の下、ワニ口の後ろに観覚光音の御詠歌があります。
「補陀落は いずこなるかと思いしに 今、大鹿に法の花山」
 観音の極楽浄土は何処にあるのだろう、と思っていたが大鹿山長禅寺に、法華の浄土はありました。 と「ひらがな古書躰」で記されています。
 百一番、とは堂内の観音像の総数なのでしょうか。それとも百一番目ということなのでしょうか。


 以下「珍寺大道場」転載記事
 三世堂(さざえ堂)は、外観は二階ですが内陣は三階構造となっています。百観音堂と呼ばれることもあります。
 さざえ堂形式の三世堂の発願は観覚光音で、建設は地元の大工によるものです。
 さざえ堂のルーツといわれる、寛保元年(1741)に建立された 本所五百羅漢寺三匝堂が最古とされています(建立時期に関しては諸説あり)、 だが、建立数年後に倒壊のために羅漢寺は目黒に五百羅漢とともに現存するが栄螺堂はありません。

 取手のさざえ堂は一階に坂東三十三ケ所、二階に秩父三十四ケ所、三階に西国三十三ケ所、の百観音と三世堂のご本尊十一面観音が奉られています、
 基本的なプランとしては埼玉県の児玉町や群馬県太田市のさざえ堂と同じ様式です。
 外内陣ともに、修復工事を重ねているのと開帳が年に一回4月18日だけなので堂内は比較的綺麗です。
 
 他のさざえ堂と比べると若干「遊び」が少ないように思えるこのさざえ堂、しかし、よく見ればそこには当時の人々の「からくり」への熱狂の残照が浮かんでくる。
 賽銭の収集方法であるが、百一観音には一体づつ賽銭受けがあるが、賽銭は最下段にある収集場所に落ちてくる構造であるのが分かり難い。
 また、外観のデザインとして目を引く正面上層部のふたつの丸窓は、外から見ると二階に見えるのだが、実はこれは三階なのである。
 そして正面の賽銭箱の上、丁度鰐口の後にも庇に隠れて見難いが丸窓がある。この丸窓がある部分が二階部分なのだ。何やら金沢の忍者寺のようではないか。
 内部は時計回りに三階まで登り、また一階まで降りてくるという一方通行スタイル、階階の中央にある吹き抜け、しかし今は板が張ってありアトリウムのような吹き抜けを覗き込む事は出来ない。
 今では何という程のことでもないが、三階建てが珍しかった江戸の頃には、ちょっとした「からくり」だったのだろう。 「珍寺大道場」より
 
 さざえ堂は江戸の本所羅漢寺で大ブームとなったが現存しない。浮世絵には富士山とともに描かれています。
 現在では福島県会津若松市の飯盛山(白虎隊で有名)の三匝堂(さんそうどう)は国指定重要文化財となっている。
 
 全国の「さざえ堂」:
 さざえ堂は全国にありますが、ここでは江戸時代からある古い歴史のさざえ堂をご紹介します。
 福島県会津飯盛山円通三匝堂、国指定重要文化財、百観音は無いがねじれ様式の建築物は非常に珍しい。
 群馬県太田市の栄螺堂百体観音、平成29年リニューアルされています、百体観音像は大きく彩色もよい。
 埼玉県児玉の成身院百体観音堂、事前に連絡しておけば解説もしてくれます。児玉千本桜の大樹が咲く頃が行き時。
 青森県弘前市の六角堂の4堂です。
 
全国の「さざえ堂」2008年5月配布版 

三世堂内部写真、2008年4月版 



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