家主の祖先は、関ヶ原の合戦(1600)中に、毘沙門天に救われ生き延びることができたために、その毘沙門天を背負って帰還したそうです。
以来、家の守護神として守り続けられています。屋号は武左衛門と言う。大師堂の中に、錦の札が貼ってありました。
個人宅で守ってきた稲村の七つの霊場札所
取手市稲には、村内に七か所の霊場札所が密集しています。しかも四十番を除く六札所は個人宅の敷地または農地に大師像を御堂内に祀っています。
毎年二月二十一日の大師日には、食膳が供えられている札所がありました。
相馬霊場全体から見ても、一村内に7札所も存在する部落は、井野や小文間、我孫子などの広範囲な地域に並ぶ規模になります。
井野などとの広範囲な地域との違いは、寺社内に札所堂が置かれて複数の人達によって守られてきた霊場歴史に対して、
個人宅や管理地内で守り続けてきたという霊場札所であることです。
稲は大鹿との連携により、取手の伝統と経済力の根源を形成し、相馬霊場にも強く影響を与えていたように思えます。
観覚光音禅師自身は、栄螺堂の建立の為の資金集めに、相馬霊場建立を利用していたと考えられても仕方がないでしょう。
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