高井城趾跡東側の脇の妙見神社の右路地入る、
明音寺は守谷の西林寺の末寺でしたが廃寺。
御本尊、薬師如来
移し寺、愛媛県瀧雲山大山寺
ご詠歌、たいさんへのぼれば汗のいでけれど
      のちの世おもえばなんの苦もなし






 

左側の小堂に大師像、右側(大)に大師像と光音禅師像が祀られています。

 小貝川が近くにあり土手に上がると岡堰が見えます、茨城百景の一つでとても風向明媚なところです。
 現在は、下高井下坪集会場となり妙音寺本堂はありません、大師堂は新旧2つあります。
 東京浅草の松屋旅館の主と信者一行による寄進であると、大師堂脇の老婦が語ってくれました。
【妙見八幡宮】高井城内にあった相馬家の氏神です。
 承平元年(931)平良文が孫(養子)の將門に加勢して兄の平国香と戦い討たれようとした時に童顔の妙見菩薩が現れて、敵である国香に剣の雨を降らせて良文は助かる、という伝承があります。
 平家の子孫である千葉氏と相馬氏の守神であります妙見菩薩は北極星がある北斗七星を神格化したもので仏教の伝来と共に占星術上の方位を指す、十二支の子の方角である北を知る方法として中国西域のシルクロードより、倭国(やまと、大和、日本)に伝わり信仰されました。
 妙見八幡神社は相馬家の氏神でした。此処は、高井城の城郭内であったので、札所堂左側奥に高井城の大門があったそうです。

【高井城趾公園】河津桜が三月中旬に咲きます。
 永禄四年(1561)高井城主の高井十朗直将は大鹿城主である大鹿太郎左衛門の娘を正妻としていましたが、小文間城主の一色宮内政良(いっしきくないまさよし)によって闇討ちされた時、稲の出城から出陣して我孫子の柴崎城主の荒木三河守等と共に、雁金山(かりがねやま、現取手市城根(じょうね))の合戦に於いて、敵の一色宮内を討って取った武将です。
 取手の歴史では名将として名を残しています。また、この民話は「取手」の地名の由来にもなっていて、鳥手、鳥出、取出とも記された古文書が残されています。
 大鹿城の砦は現在の取手競輪場の南側入口の坂左側に在ったと云われていますが、城址の形跡は全くありません。高井城址は取手で唯一その痕跡を残してくれました。
 高井城は、長治年間(1104~1106)に信太小次郎重国が信太郡(土浦)から移り住み築城し、相馬氏を名乗ったという。建武三年(1336)の相馬親胤宛の「斯波家長奉書」に高井村の名が見え、相馬氏の知行地であったことを示しています。
 高井城主は代々相馬を名乗り、天正年間に高井下総守直将がはじめて高井氏を称したといいます。守谷城主の相馬治胤は高井何某の子で、守谷相馬氏に養子入りした、高井城主でありました。
 高井十郎民部太夫胤永のときに天正18年(1590)の小田原の役を向かえ、北条氏に味方したため没落した。このときに胤永の三男胤正の子秀胤が横瀬伊勢守保広を名乗って江戸時代前期まで居住したが、のちに広瀬氏と改め帰農したため廃城になったといわれる。
 取手市内では城郭跡がしっかり残る唯一の城跡で公園として残されていますが、高井城の一画は現在宅地化されており、その規模は三分の一ほどになっています。
 


ICON 岡堰の平将門伝説


ICON 郷州街道と高井城址







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