下高井、普蔵山高源寺 
 永仁元年(1293)夢窓正覚国師大和尚開山、高井城主であった高井胤永(相馬次郎重胤)の菩提寺です、墓地内に陵墓があります。
 御本尊、承平元年(931)平将門による釈迦如来
 移し寺、愛媛県西林山浄土寺
 ご詠歌、十悪のわがみをすてずそのままに
       浄土の寺へまいりこそすれ





 

 樹齢1600年の歴史のケヤキと根元に欅地蔵が祀られています。
 大師堂札所は本堂左側、墓地手前の石段上にあります。
 墓地内には高井城主であった相馬胤永の墓石があります。
 更に、千葉県野田市と柏市に残る、利根運河に貢献した「廣瀬誠一朗」の墓があります。
  高源寺は、永仁元年(1293)夢窓正覚国師大和尚開山、高井城主であった高井胤永(相馬次郎重胤)の菩提寺です、墓地内に墓石があり、先祖が高井城の家老職であった廣瀬家が現在も守っています。
 廣瀬家は近在にお住まいです。千葉県野田市と柏市に残る、利根運河を造った廣瀬誠一郎とその一族のお墓も高源寺にあります。
 


  廣瀬誠一郎は、明治十五年相馬群長という役職で岡堰の改修を行い、その後、利根運河の建設に遁走しました、しかし、運河建設は県令事業としては頓挫した為、民間会社「利根運河会社」を設立して運河を完成させた人物です。
 利根運河により、水海道や取手、土浦や銚子から東京への交通の便がよくなり利根川沿いであった下総国は潤いました。
 鉄道が開通するまでの水運は賑わいました、守谷桟橋から東京まで上りが十時間、下りは六時間を必要としていました。
 
 廣瀬誠一郎と利根運河 天保九年(1838)下高井に生誕、明治二十三年三月に他界享年五十四。
 かつて利根川と江戸川間を航行する船は、両川が分岐する関宿を経由しなければならず、また、鬼怒川合流点までの利根川には浅瀬が多いため、渇水時には大型の高瀬舟では航行が困難という問題がありました。
 利根運河計画はこれらの問題を解決するもので、茨城県北相馬郡選出の茨城県会議員であった、廣瀬誠一郎が当時の茨城県令人見寧(ひとみやすし、天保十四年(1843)~大正十一年(1922))に陳情し、人見がこれを受けて推進しました。
 利根運河を派川(ばせん)利根川とも呼びます、また開削当初は利根川側の「三ヶ尾(さんがお)沼」名から三ケ尾運河ともいわれました。
 運河の設計に当たったのがムルデルやデ・レーケ等のオランダ人技師で、工事は明治二十一年(1888)に開始され二十三年六月に竣工しました。
 運河の開削により、関宿を経由して東京に向かっていた船は航路をこれまでより33キロも短縮し、日程も三日を一日に短縮することができました。
 明治中期から大正時代にかけて隆盛をきわめた利根運河も、その後の鉄道の発達や道路の整備拡充により通船は減少の一途と水害の修復費により衰退して、昭和十六年に運河としての役割を終えました。
 現在は水質改善の研究場所となり、水辺は親水公園として整備され、東武野田線運河駅近辺から運河沿いは、桜の名所にもなっています。
 
 勝海舟と廣瀬誠一郎、
 勝海舟、文政六年一月三十日(1823/3/12)~明治三十二年(1899/1/19)
 江戸城無血開城で知られる勝海舟は晩年、利根川の和田沼(わだぬま)に鷹狩りに訪れていたようです。根拠は柏市布施にあった旅籠を営んでいた頃の先代の話を聞いている御子息からお伺いした話しです。
 和田沼は、雁や鴨の渡り鳥の飛来地で江戸時代から雁猟で知られるところでした、シーズンになると布施の旅籠は猟師の宿泊客で賑おうたそうです。
 布施弁天から利根運河までに大きな沼が六沼あり総じて和田沼といいました(現、田中遊水地 柏斉場下)、徳川慶喜や有馬候らの名士が明治二十年頃雁猟にお訪れていたそうです。
 この頃、廣瀬と人見寧は親しい関係であり、二人は明治三年に薩摩へ遊学の際、西郷隆盛に面会を申し出る為、勝海舟から紹介状と十両の旅費を受けているほどの師弟仲でした。
 「勝海舟日記」に、明治二十年二月十八日「人見、一人同道・・」とあります。廣瀬家に残る「書」の年月と同じ頃であり、「一人同道」こそ、勝邸に人見と訪れた、廣瀬誠一郎なのではないでしょうか。
 更に日記には、明治十二年四月六日「利根川を下り、キリップ(川の流れを弱める為に、川の中に杭を並べて打ちその中へ大きな割石を据えた護岸、伝統的な日本工法)を見る、初夜、帰宅」と記され。
 利根川に来ていることは間違いない。戦後は、なぜかGHQが日本を制した戦後、米軍人がどこで知ったのか猟に来るようになり、和田沼から雁や鴨の姿は消えてしまったそうです。  

 「利根運河と広瀬誠一郎」 








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