相馬霊場の開基僧、観覚光音禅師「取手の春は お遍路さんの 鈴の音(ね)と ともにやって来る」と詠われているように、相馬霊場のお遍路さんの鈴の音は、春を告げる音でした。毎月廿一日は「お大師様の縁日」で、梅の花が咲く二月頃からお遍路さんの旅は始められたようです。 |
新四国相馬霊場八十八ヶ所について四国の霊場に対して、他国の大師霊場を新四国又は準四国といいます、「新」や「准」が付く大師霊場は、全国に数えきれないほどありましたが、激減しているのが現状です。新や准が付く四国霊場とは、徳島県、高知県、愛媛県、香川県の四国四県の大師霊場の各札所から、御砂を頂いて地元に持帰り、新たな札所に大師さまの像を祀り、頂いてきた御砂を埋めて霊場札所としています。 下総国には、七十七ヶ所もの新四国霊場が文献や伝承や口承で確認されているのですが、現存している霊場は少なく柏大師、運河大師、印西大師、佐原大師、石下大師など数ケ所しか、八十八ヶ所全てが残っている霊場はありません。 相馬霊場は、下総の国では古いのですが、千葉県野田市西高野山報恩寺霊場が最も古く、関東一古いとも言えます。 二番目は、千葉県印西市の印西大師で、相馬霊場は三番目に位置しています。 相馬霊場の開創は、宝暦九年(1759)頃から安永四年(1775)にかけて観覚光音禅師という大鹿山長禅寺の僧により、当時の大衆を巻き込んで創建されました。 相馬霊場の完成には諸説あるのですが、私ども相馬霊場巡る会では観覚光音禅師が安永四年の秋に出版している「版本霊場石土」の出版時には既に霊場は完成と推論しています。 従って、取手市史に記載の「石柱の建立日が各霊場の開基時」を唱える石柱説とは異なります。 |
相馬霊場の創始者観覚光音禅師、通称名伊勢屋源六江戸時代中期の人物である伊勢屋源六(正徳元年(1711)~天明三年(1783))は、現長野県の信州佐久郡海尻の出身で幼少名を井出観三丸(かんざんまる)といい井出三左衛門の三男児でした。長野県の松原湖の近くを流れる大河千曲川沿いには八ヶ岳高原鉄道が走っていますが「海尻」という駅があります。 話がそれますが、海尻の有名人として演歌歌手の千昌夫さんによって大ヒットした「北国の春」は皆様もご存知と思いますが、 「白樺 青空 南風 こぶし咲く あの丘 北国のああ 北国の春」で始まるこの詩は、作詞家井出はくによります、井出はくは海尻の出身でした。…… 作曲:遠藤実 |
観覚光音の生い立ち井出観三丸は十三才の時、志を立てて江戸浅草で呉服商を商っていた、伊勢屋庄右衛門にて奉公を始めます。時は経ち観三丸三十才のとき、伊勢屋主人庄右衛門の命により、常陸国筑波郡の豊体(現在のつくばみらい市)の豪商である渡辺家に赴きます。近年県会議員渡辺太郎の本宅。 渡辺家の身代が傾き営業不振に陥り、救済のために赴きました。延享二年(1745年)再建に成功。 本来であれば浅草に戻る処ですが取手宿で独立します。この時に伊勢屋庄右衛門から伊勢屋の屋号を受け、取手宿の染野源左衛門より店舗を借用、更に源左衛門の「源」を取り「伊勢屋源六」と商名を名乗りました。 再興に成功した渡辺家からの謝礼金や反物などを元に、穀物商を営み繁盛していました。 また、商いの傍ら取手宿の繁栄の為に尽くし多くの人々から慕われたといわれています。明治の初めころまで行われていた月六回の「六市」は、近在から多くの人で賑わったそうです。 しかしその後、源六は嫡男を亡くしました、死因は不明です。源六は妻を他家へ縁付かせ一人で商いを始めます。「豊体屋 豊体屋」と騒がれて店を三店に増やす程だったそうです。 宝暦八年(1758年)、源六は長禅寺の幻堂(げんどう)和尚と親しくなり、玄堂和尚から頼まれて百観音堂宇改築の着手に取り掛かります。 翌年の宝暦九年、出家して観覚光音禅師となった源六は、下総国相馬郡取手宿や我孫子村を経文を唱えながら巡り、貧者への施しや病者への救いを行ったと云われています。 同年、遍照金剛のおられる高野山の金光院に赴き、十七日間の修行に励んだといいます。 この時おそらく、四国三郎吉野川沿いの八十八ヶ所の風景を、坂東太郎沿いの相馬霊場へ写す構想を考案されたものと思われます。 四国一の石鎚山に源をもつ四国の大河吉野川左岸には四国霊場第一番霊山寺~十番切幡寺、右岸に十一番藤井寺~十七番井戸寺が並びます。 これ等の霊場の連なりを遠望出来る訳ではありませんが、光音禅師は吉野川を坂東太郎利根川に置き換えて相馬霊場を開基したのでしょう。 宝暦13年、荒廃した長禅寺の百体観音堂を「さざえ堂」に改装三世堂と令名。更に新四国相馬霊場を開設する為に八十八回も四国を訪れたといいます。 観覚光音禅師の活躍もあり、当時の取手宿は大師信仰と観音霊場の町として近隣に名をとどろかせ、宿場全体が活気を帯びて繁栄しました。相馬百八十八霊場または「取手の百八十八霊場」ともいわれました。 晩年は 元長禅寺移転前の在地の境内である現取手市白山に四国より金刀比羅宮を写し、光音自ら此処に隠居していましたが天明三年十二月十七日に、病で天命を全うしました。 辞世の句「日々に運ぶ 歩みの後消えて 行くとも知らず もとのすみか」、観覚光音禅師享年七十三。【参考資料】一部分取手町郷土史資料集第二集より。 |
海尻の光音講光音講とは、信州海尻村民による「講」組合組織でした。光音講は観覚光音禅師没後に組織された講で、毎年代参を立てて新四国相馬霊場八十八ケ所を巡拝する為の講でした。相馬霊場参拝時の取手での宿泊所は、長禅寺下の伊勢屋が定宿でした。 講代参は結願後の帰路に於いて、成田山新勝寺、宗吾霊堂を参り、船橋経由で千葉街道(現国道14号)から江戸に入り名所見物巡りの後、郷里に戻り代参役の報告と光音講仲間へのお礼と酒宴をもって役割の交代を行い終えたといいます。 大正末期に光音講は途絶えましたが、観覚光音禅師没後の二百回忌の記念行事が昭和59年に取手で行われた際、取手市は光音講関係者を相馬霊場巡りに招待し参拝されたということです。 |
相馬霊場の歴史、取手市史との違い。四国の大師霊場では各霊場への道案内を示す石柱が路地に建っていて「遍路みち」といいます。相馬霊場にも同じ様な石柱があり「大師道」と記されています。大正時代建立が多く江戸時代の石柱はさすがに少ない。現在、出版中の「取手市史社寺編、第二章取手市の社寺の歴史、第一節の三、村堂と民間信仰」に於いては「霊場の社寺境内の門柱建立記述日が札所建立日」として記載されています。 しかし、この説は新たな資料出現により重要な疑問が発生しました。平成時代になって水戸県立博物館に、安永四年出版の「霊場石土写記」観覚光音禅師著書の情報により、それ迄の石柱開基説に疑問が生じました。 |
安永四年版の光音著「霊場石土写記 全」より願主、観覚光音禅師の序【 粛大悲願の発して西国・秩父・坂東及ひ四国霊仏・霊社の尊像を移し来て、此地に道場を造建し、而後子思ひらく、昔慈寛大師入唐の時、五台に文殊慈現の相を礼し、誠に感喜斜ならず、故に其土の霊石土塊を袖にし朝にかへり、忽叡山に於いて文殊桜及ひ獅子を彫刻して、霊石土を其礎四足下埋云云、予其事跡観して此地西東大悲山川陸地の霊石土を担ひ来て、道場の礎下に埋、尊像を安置し、朝暮礼拝供養し奉る、然と雖(いえど)四衆の輩大悲の感応群ならず、故に予が錐毛に綴りて其功徳を記すと尓云、夫菩薩ハ一体分身にして万法一如の明鏡を照らし、一切衆生を救護し給ふ、いわんや借仰の輩ハ火盗水難・病難・万難替消なさしめ、福聚海無量を授ケたまふこと明らかなり、殊更女人は衆人愛敬を結び給ふ、是菩薩の功徳世に挙算るに遑(ひま)あらず、故に四衆の輩誓なば頓に無常菩薩を証せんこと秘也尓云、安永四乙未年九月、願主 光音護白】 相馬霊場のガイド本というべき内容。 霊場の石柱の必要性は霊場が開基された後でも十分であり、開基時でなくてはならない理由はありません、ましてや寺社仏閣境内に建立されているのであれば猶更といえる、寺社仏閣の山門や石柱は境内との境や結界門としての役目を成し必要であろうが、境内の建立物には重要生が伺えない。 我孫子市湖北の正泉寺の様に、大師霊場建立の際に光音禅師と同行して檀家や一部の村人の代表とともに四国へ巡礼して、正泉寺境内に霊場を移したという石柱が建立されている場合がある。だからと言って全ての札所に該当することでは無いので一概視することは出来ないと思われる。 重要な問題は、観覚光音禅師という高僧が完成もしていない霊場巡拝する為の参考書、ガイド本を出版したりするだろうか、という事です 霊場石土が明らかにしているのは『安永四年には霊場が完成していなければ出版する事は出来ない』と言い換えて語っていると解釈できます。 また、石柱に刻まれた年号はその石柱の建立日であって札所開基日と断定するのは不自然な根拠であるとおもわれます。 安永五年、同八年などの石柱イコール相馬霊場完成説では、既にガイド本まで出版されているのに、お遍路さんが来ても全札所のお遍路が出来ない事になります。 |
相馬霊場の場合のお遍路方法札所番号順で無くて構わない。四国霊場では徳島県の第一番霊山寺の発願(ほつがん)から二番、三番と巡り、香川県の第八十八番大窪寺結願まで札所番号順に巡りますが、相馬霊場の場合は札番順では無くても構いません。第一番長禅寺に第八十八番があるので、もう一度戻って来なければなりません、すなわち一周することになります、この時右回りが「順打」で左周りが「逆打(さかさうち)」といいます、四国も同じです。 順番では無い理由。創建時に地域の人々からの要望と光音禅師自身の願望によります。全国的にみても、新や準の四国霊場は順不同が比較的多いようです。 新四国相馬霊場を巡る会では順不同方法で巡拝しています。また、全十コースに分けて、その都度地域別分けしたコースを歩きます。2年間かけて歩くので、その時々の季節や風景を考慮しての結果なのでご了承の程お願い致します。 但し日を跨ぐ本来の巡拝方法は、前回巡拝して打止(うちどめ)した札所の続きから続行する場合が多いようです。巡拝の順路に決まりがある訳では無いのでご自由な順路でどうぞ巡ってください。 |
相馬霊場のご詠歌は四国霊場と同じ相馬霊場でのご詠歌は、一番から八十八番まで全て四国霊場の各霊場の各ご詠歌に同じです。相馬霊場には番外で89番があります。我孫子市布佐平和台の浅間神社前に在り、観覚光音禅師が勧進しているので相馬霊場八十八ヶ所の一部とされています。四国霊場では88番迄なので89番のご詠歌はありません。従って、相馬霊場第89番のご詠歌は、相馬霊場のオリジナルという事になります。『八そや九に よろずの願い富士浅間 大師の恵み ふかき手賀沼』 第89番に万年の願いを富士山浅間神社(富士山噴煙の沈下の神)に乞う、弘法大師の恵みをもって手賀沼に及ぶよう請う。富士講に従わざる得ない世相が見えます。 |
百一番三世堂(さざえ堂)観覚光音禅師は、もう一つ、大師堂ではないが百一番観音堂を建立しているのでご紹介しておきます。寛永13年に改築が完成した、さざえ堂建築の三世堂です。百一番とは西国三十三観音霊場、坂東三十三観音、秩父三十四観音写しの観音像百体と、長禅寺百体観音堂の十一面観世音菩薩立像の計百一仏より百一番となっているのではないかと考えられています。 御詠歌は、三世堂軒下にある「施無畏(せむい)」の扁額の下、或はワニ口の後ろに御詠歌の額があります。『 補陀落は いずこなるかと思いしに 今、大鹿に 法の花山』 【現代訳】「観音の極楽浄土は何処にあるのだろう」と思っていたが、大鹿山長禅寺に法華の浄土はありました。と変体仮名(平仮名の古文書体)で記されています。 【歴史】 長禅寺が白山金刀比羅社の地にあった頃は「千躰観音堂」といい、檀徒が持込んだ観音像が祀られていました。 元禄六年(1693) 長禅寺は幕府令により水戸街道沿いの現在地へ移りますが、千躰観音堂は白山に留まった様です。 宝暦十三年(1763)千躰観音堂の老効果により、現在地に白嗣殿(はくしでん)として再建されました。寛政二年(1790)台風で倒壊。 享和元年(1801) 白嗣殿の古材を活用して「三世堂」として復活し現在に至ります。 他説で「白嗣殿はさざえ堂ではなかった」という説があるが確証に至らず、取手市史説を定説としています。 |