光音禅師の「懸所(掛所)」への配慮

 
  

浄土真宗に配慮する著書の文面

  

私達が巡る大師霊場、新四国相馬霊場八十八ヶ所は、取手市、千葉県我孫子市、柏市布施に広がるミニ霊場ですが(以後「相馬霊場」簡略表記)
 他の大師霊場や観音霊場では余り聞かない懸所(かけしょ)と呼ばれるところがあり、札所間に設けられたお休み処(接待場)をいいました。
しかし、本国四国の四国霊場八十八ヶ所には「懸所」と呼ぶ物件はありません。四国には別格四国二十霊場がありますが「懸所」とはいいません。
 相馬霊場のエリア内にある懸所という札所の存在は、相馬霊場を開基した光音禅師も著書「霊場石土写記」で、私が勧進した物件ではないと否定しています。
 水戸の茨城県立歴史博物館に「安永4年版の光音著の「新四国相馬 霊場石土写記 全」という、相馬霊場開基の僧、観覚光音禅師の著書が現存するのですが、その二項目に懸所を否定する文があり、以下の様に記されています。

  
  奉写 此八十八ケ余の札所、其れいぜうの土砂を持チ来りて造立 成就の所也、しかるに此の間 所々にかけしよ相見へ申侯へ共、予か造立 土砂霊場の外ニて御座候間、其 思召ニて御さんけいは 御勝手に可被成侯、まきらわしく御座候間、かくのごとく侯、   
  

と記され、「かけしょ相見えるが、予が造立した霊場の他であって、関りのないところである」と、あえて、きちんと断っています。
 更にこの著書には、相馬霊場 全札所八十八ヶ所を紹介した後に、八十九番の仙元(せんげん)神社布佐新田の他、取手市白山の金刀比羅神社、相州(相模国)の道了大権現、讃州(讃岐国)の金毘羅大権現、遠州(遠江国)の秋葉大権現。右三社写 同寺地内 勧請。
 菊月吉日、願主光音 と追記して、八十九番と白山神社境内の三神社は勧請したと認めています。

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 しかし「かけしょ」とは記していません。
 ではなぜ、観覚光音禅師は「かけしょ」にこだわりを抱いているのでしょうか。
 宗派が違うからなのか? 実は、懸所は浄土真宗と東本願寺に関わりがありました。

 

本来の懸所の意味を解く鍵は、次の二ヶ寺にあります。

 その一寺、東本願寺新井別院、長野県妙高高原の妙高市
  頸南地方の末門や門徒を支配統轄するために創設された別院は貞享2年(1685)の創設。
  境内には親鸞聖人ゆかりの恵信尼の御堂や新井出身の画家森蘭斎(江戸中期活躍)の墓もあります。
  毎年冬の十一月には「おたや祭り」が開かれ、賑わいをみせています。
 【由来】江戸時代の半ばから、各地の寺院間で、信仰上の考え方である「教義」をめぐって、対立が起きました。
 新井の願生寺は、信仰上の対立から、東本願寺の宗派から除かれてしまい建物をはじめ、すべてのものを取り上げられてしまいました。
 貞享2年、十六世一如上人は、新井頸南の東本願寺末寺や門徒を支配するため、その場所に東本願寺の懸所、実情は本山の出先機関を設置しました。
 これが、新井別院の始まりです。以後、明治9年には新井別院と改称され、現在に至っています。

 その二寺、三条別院、浄土真宗大谷派、新潟県三条市
  「ご坊さま」と地元の人々から呼び親しまれております真宗大谷派三条別院は、京都にあります本山の東本願寺の別院です。
  宗祖親鸞聖人、承元元年(1207)35歳の時、人生をむなしく過ごすことなく、共に生きぬくお念仏の教えが、ときの権力によって弾圧され、遠流という死刑に次ぐ重い刑罰に処せられ、越後(佐渡)に来られました。
  荒涼とした厳しい自然の中に生きる人々を同朋として共に歩まれ、その教えは今なお越後の大地に深く根づいて今日におよんでおります。
  当別院は、元禄3年(1690)三条の地に創立され、越後門徒の総力で七堂伽藍が完備し、北陸随一の別院と称されました。
  しかし、その後、二度の大火にみまわれ焼失し、現在の本堂は明治39年(1906)に建立されたものです。
  現在も、南は柏崎から北は村上にいたる五百ケ寺におよぶご寺院とご門徒の念仏求道の中心道場として崇敬護持され、社会に開かれた別院として歩みを続けています。
  元禄3年(1690)、東本願寺三条懸所創設、浄円寺御堂が仮本堂となる。
  元禄16年、東本願寺三条懸所本堂完成により入仏式を行う、東本願寺高田掛所創設 米山以北(米北)三条掛所管理となる。
 掛所は、これ等の様に浄土真宗から発生した用語と分かります。
 観覚光音禅師の造った霊場は、お大師さまですが、光音禅師は浄土真宗の僧ではありません。
 他の宗派の言葉を使うには、それ相応の意義あるものでなければならない筈。
 親鸞に失礼にならないよう、敬意の心がこの古文書から見えるのです。




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御朱印に残る「懸所」の記、

越前国福井城下の西御坊(左<)本願寺派(現、西別院)と東御坊(右>)大谷派の東別院 の
大谷派は「本願寺懸所」、本願寺派は「本願寺役所」となっています。

掛所・懸所(かかり どころ)、たよりとする所。
後撰和歌集(951~953頃)恋二・六〇九
「ともかくもいふ言の葉のみえぬかないづらは露のかかり所は 右京」
< 建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ)平安時代後期の女流歌人 >



親鸞、二人の妻

玉日姫と恵信尼(えしんに)

 

今年、数えで九十歳。長年、敬愛する親鸞の享年に並んだ梅原猛さん が解明に挑んできた「親鸞、四つの謎を解く」を今、ようやく公けにした。
 梅原さんは1925年、宮城県生まれ。京都大文学部哲学科卒。日本文化の深層を探る「梅原日本学」で、1999年に文化勲章を受章している。

 近年(2016年現在)、親鸞の研究が進んだ。
 ちまたの研究者 佐々木正さんが1997年に出版した『親鸞始記 隠された真実を読み解く』という本を書き、今まで偽物とされてきた親鸞の玄孫である「やしゃご」存覚の伝記『親鸞聖人正明伝』が「偽物ではないんじゃないか」と言った。
 親鸞始記に掲載されている正明伝を何遍も読んで「存覚の著書に間違いない」といろいろな点から思えるようになってきました。
 本願寺教団では大正時代に親鸞に対する文献批判が起こり、存覚の父 覚如の書いた『親鸞聖人伝絵』と「恵信尼(えしんに)文書」以外は史料として取るに足りないということになった。
 この時、教団で長い間語り継がれてきた親鸞の妻 玉日の伝承も否定された。
 

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【写真】左<:玉日姫、右>:恵信尼

 梅原氏はいった。
 「そうして出てきた親鸞の伝記を読むとね、ちっとも面白くないんですよ。親鸞の人生が非常に平凡です。恵信尼と結婚したのは性欲が抑えられなかったからと。そんなばかな」(笑)
 なぜ正明伝を認めないのかというと、真宗高田派(※)の正統性を主張する『高田開山親鸞聖人正統伝』と共に正明伝が専修寺派(高田派)から出たからです。
 本願寺は、高田から出たことが気に入らないのです。
 だから本願寺では内容をろくすっぽ検討もせず、偽書としたんですけど、正明伝を読んでみると高田を正統と認めるような記述は少しもない。



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(※) 高田山専修寺は三重県津市一身田町にある、浄土真宗十派のうちのひとつの真宗高田派の寺院です。
本山の本寺は栃木県真岡市高田にあり(写真)、本寺の住職は本山専修寺の住職が兼任している。
「専修寺」の名の由来は浄土系宗派の特徴である専修念仏に基づくとのことです。



  存覚の本を全部読みましたが、正明伝の文体は存覚本人の文章にそっくりです。
  江戸時代に専修寺派で作られた偽物だというけど、江戸時代だったら漢文調で作るはず。
  和文で大変な名文なんですね。正明伝は存覚の書に間違いないと思った。それで正明伝に従い親鸞伝を見直したんです。

  もう一つは浄土宗西山深草派の研究者である、吉良潤さんが親鸞は源頼朝のおいだという本を書いた。
 読んでみると非常にもっともで、親鸞の母は頼朝の父である源義朝の娘じゃないか、だから親鸞は頼朝のおいじゃないかという。
  私は親鸞の母が源氏だということは間違いないと思う。

  その二、正明伝と源氏との関係で親鸞のいろいろな謎が解けるんです。
  例えば。親鸞はなぜ出家したのか。   当時は平清盛が死んで平家がヒステリックになっていたころ。
  だから、母が源氏では命が危ないと、父の日野有範の一族と関係のあった摂関家の、九条兼実の弟である、天台宗の僧慈円のところへ出家させた。
  そう考えると非常によく分かるんです。

  正明伝の中心は玉日姫との結婚ですね。
  九条兼実が法然に「自分のような俗人の念仏と女に触れない聖者の念仏が変わらないのなら証拠として弟子から一人を選んで私の娘と結婚させてくれ」と、
  それで法然は親鸞を指名する。
  親鸞は断るんだけど泣く泣く結婚する。浄土真宗と浄土宗の違いは、結婚するかしないか。
  結婚する俗人でも結婚しない僧でも変わりはないと法然は言っているが、それを親鸞は初めて実行したわけです。ある種の宗教の革命だと思う。
  女性も僧と変わらない。
  つまり長い間、仏教に存在してきた女性差別を撤廃する教えです。俗人救済の教えであると同時に女性救済の教えです。

 仏教の第一の革命は大乗仏教の成立ですが、親鸞は第二の仏教革命をした。
 そこに正明伝の一番の基本的な思想があるんです。
 玉日姫との結婚を認めないと浄土真宗の本質が理解されていない事になる。恵信尼との結婚ではその結婚がどうして起こったのか全然問題にならない。
 玉日姫との結婚の話を抜きに浄土真宗という教団の意味はないんですよ。

 親鸞が流罪になると、玉日は兼実の娘ですから流罪地には行けない。代わりに玉日の侍女である恵信尼を遣わした。
 そうしたら流罪中に玉日は死ぬんです。
 親鸞は、流罪が許されるとまず京都にやって来て法然、玉日の墓に参り、玉日との間の子どもに涙をこぼして会う。
 そういうところに親鸞の悲しみ、人間味がにじみ出ているんですよ。
 今までの伝記ではそういうところがない。正明伝は親鸞の人生、血と涙が実によく書けている。
           梅原猛 芸術新潮より

 結城市の城跡公園に「玉日姫の墓」があります。
 玉日姫は越後へ流される親鸞の後を追い、侍女白川局とともに結城に来た。
 結城に留まり、親鸞の教えを広めることになった。
 建長6年(1254)、玉日姫は結城にて没する。
 笠間市稲田のJR稲田駅近隣にも玉日姫の廟があります。




 スーダラ節と親鸞: 植木 徹誠(てつじょう、1895/1/21~1978/2/19)、浄土真宗僧侶。本名徹之助。植木等の父。
 現伊勢市の材木商の家に生まれる。妻の実家が西光寺(伊勢市)であった為、浄土真宗大谷派の仏門に帰依する。
 1926年、後に歌手で俳優として有名になる植木等が誕生する。
 在住職時、檀家にて出征兵士の前で「戦争は集団殺人」「卑怯といわれても生きて帰ってくること」「人に当たらないように鉄砲を撃つこと」を説く。
 また、全国水平社の活動に参加して、被差別部落の入会権差別に反対し朝熊(あさま)闘争で活躍するものの、治安維持法違反で4年間投獄された。
 1961年頃、植木等が青島幸男作詞の『スーダラ節』を歌うかどうか父の徹誠に相談した際「『わかっちゃいるけどやめられない』は親鸞の教えに通じる」
 と助言する。この『スーダラ節』が大ヒットし、植木等がより有名となる。
 83歳で死去する。1987年2月、植木等により『夢を食いつづけた男、おやじ徹誠一代記』が出版され、波乱万丈の人生が知られることとなりました。
 



2016/7/7 記
2022/1/10 改